昨夜も「彼岸過迄」を読みつつ布団の中、あれ、これ前に読んでいたのかな、と錯覚する場面に逢着。
宵子ちゃん(漱石の五女、ひな子ちゃんのことを描いた場面… まだ言葉も喋れない年端の幼児)、突然旅立った。いつも通りご飯を食べさせてもらっている最中に、まったく原因が不明のままに。

まいった。漱石、つらかったろう、さぞ…
自分の飼っていた猫、11年一緒に暮らした猫のことも想い出した。フクも、まったくいつも通りだった。居間で僕がパソコンに向かっている時、すぐ後ろの椅子に彼はまるまって寝ていた。突然、ドスンと落ちるような音がして、振り向くとフクはいつものように歩いていた。ただテーブルの下へ行こうとしていた。

虫か何かを見つけたのかと思った。でも何か様子がおかしく感じた。見ていたら、こっちを振り向いて、僕の方へ来ようとした。その途中で、ニャアと言って、それきり動かなくなってしまった。

何が起きたのか分からなかった。冗談のように思えた。フク、フク! 呼んでも、動かない。抱くと、力なく首がたれた。何回も名前を呼んだ。名前じゃダメかと思い、フクの大好きな「ご飯!ご飯!」と言った。でも何の反応もない。

あんな悲しい朝はなかった。

… 一昨年には、やはり親しかった人の突然の死があった。そのことも想い出した。宵子ちゃんの死の場面から、実際に、現実に起ったこと、残された人のこと、いろんなことが想起されて、つらかった。

だが宵子ちゃんの死の時、ご飯を食べさせていた千代子のことを、漱石はこんな言葉で結んでいた。── せつなさの少し減った今よりも、苦しいぐらい悲しかった昨日一昨日の気分の方が、清くて美しいものを多量に含んでいたらしく考えて、その時味わった痛烈な悲哀を、かえって恋しく思った。
と。

ひとりで涙ぐんでいた、大晦日の夜だった。