女と男はほんとうに違う。太宰は「ヒトとサルを分ける前に、女と男を分けるべきだ」と云ったが、それほどに違う。
漱石もよくそこには触れている。男尊女卑とか下らないことをいう前に(男尊女卑というものが下らないのだ)、全く別種の生物、として掛かった方が、おたがいの身のためと思う。違いを、心から微笑んで受け容れられること。
個人差はむろんある。前提以前の大前提としてある。その大前提の前に決定的に違っている。これを是認した上で、では違いを差別的に見るのか、包容する大きさを自身の器とするのか、へ発展する。展開をどうするかが個々人、自己に委ねられる。試される。
「女は子宮で考える」も誰が残した言葉か、いみじくも的を得た言い表わしだった。女には女にしかない共通点、肉体でない精神的な、男と全く違う活動の仕方がある。全く同様に、男には男の、男にしかないそれがある。その男女のそれは接点がないほどに決定的に異なっているのだ。
そこに接点を見い出そうとすると、必ず痛い目に遭う。好意をもっている間は、見い出そうとする姿勢があるから楽しい。違いさえ、喜べる。だが一度、ああほんとうに違うんだ、と元に立ち返った時(そういう時が運命的に来るのだ)、違いは呪わしい、忌むべきものとなり、その対象がその交際相手に向かってしまうのだ。
その相手に罪なぞ何もなく、ただ女であるというだけなのだ。こちらは、男だったというだけである。
だから違いを、個人のせいにしてはいけないのだ。別種の生物、生命体である、と腹をくくって関わることが肝心である。誰のせいでもない。男と女であるせいなのだ。
── と、見るようになったら、いつの時代にも巡る「男女の泥濘」「痴情のもつれ」「深い溝」「恋愛絡みの殺傷沙汰」等から、しばらくの間はヒト族、解放されるのではないか。
考えられる喜び
漱石の描く女性像は、「三四郎」の美禰子さんのように〈謎めいている〉ひとが多い。おそらく漱石自身が抱いた女性観であったと思われる。
人の心はわからない、わからないから考え続け、書き続けた漱石。
「漱石はお兄さんのお嫁さんに好意を持ち続けた」とか、研究者は言う。
確かに嫂あによめと義理の弟の微妙な関係が、幾つかの作品中に幾度か描写されている場面があって、またかよ漱石、と感じたこともあった。が、漱石はもちろん自分自身の心もわからなかった、でもそのわからないことをわかっていたのだろうと想像する。自己のも他者のも、心というもの、ぜんぶがわからなかったのだ、と思う。
夫婦間のスレ違い。「人どうしが、わかり合えない」ことを明るみに出す。その理由も、小説ではぬかりなく描かれている。
漱石を読むのは時間が要る。でもちゃんと追って、考えれば、必ず腑に落ちる。落ちるまでに時間が掛かる。この時間を、「人(の心)をわかる大きな一つの機会」と僕は考えている。
人どうし、真意というものが伝わらない。誤解する。そうしてわかり合えない。当たり前の道理だ。でも、これを当たり前で済ましていてはダメだ… と思う。
当たり前で済まし、ただ陽気に暮らしていく。それでやって行ける人は、どうぞこんな文は読まないでください。
考えることに、深いも浅いもない。はじまりは「わからない」。それだけであって、あとはその相手(また自己)のわからなさ、関係の中のわからなさ(相手と自分の、また相手を思う自己と、その自己に対する自己との)にどう立ち会っていくか、に過ぎぬ話と思う。
「わかり合えない」として、そのまま一緒にいるというのは、つらい。
「わかり合えるもわかり合えるもない」として、自分の場合、暮らしていると思う。だが、どこか一点に、これだけは理解されている、という部分がある。はたしてそれがほんとうか、というと、自信がない。だが最低限、だから大事な土台として、それがないと、なかなか長い間一緒に暮らせなかったように思う。
おそらく僕は僕で彼女を理解し、彼女は彼女で僕を理解している。この一点が必ずある。
でもそれが交差する、交わる、ことはないと思う。
僕が彼女を理解し、彼女が僕を理解しているのだから。
「し合う」ものではない。「する」ものだ。
二つの直線が並んだまま、ずーっと先へ行けば、その先で「合える」だろう──
… こないだ、先妻とメールした。互いに、ポンポンと会話のキャッチボールができた。彼女も「(笑)」、自分も「(笑)」の文字を使い、たぶん彼女も楽しそうだった。
何だかんだ、30年のつきあい、ありがたい存在と思う。時間と距離、そしてお互いがお互いであり続けていることが、こういう関係をつくっているように思える。
「言葉を多く必要としない関係」は、あるていど「わかり合って」の上にあるように思う。それが「あきらめ」、わかり合えないのだというあきらめなのか、それとももう充分わかり合えたの上で来るものなのか。それによって、構築された関係も変わって来そうだ。
何であれ、言葉は要る。何も話さない関係は不可能だ。そして漱石を読んでいると、どうもその会話の言葉、発言から、お互いのスレ違いが浮き彫りになる──
その言葉を出す前に、「意」がある。自分の発したい、伝いたい「意」が。また自分ではどうにもならない周りの情況がある。さらに二人が晩ご飯を共にするまでのバラバラな時間がある。その前に、それぞれの「自分と自分との関係」がある。
相手が今どんな心持ちでいるのか。よく想像する、思う、インスピレーション、「感じ」がある。自分の中でひとりでに働くその感じを、よくみつめると、何か「わかる」気がする時がある。
言葉だけで全てが解決するものでない。
解決なんていつも無い。「その時、わかる」だけでいい── それは自分が「わかる」以外、ない。
その繰り返しで、生きているうちに「合えれば」。
漱石を読むと、その「合える」までの、相手への気持ちの想像の仕方、バリエーションのようなものが増えて、とても自分のためになっていると思う。