セリーヌ、サルトル、キルケゴール

 キルケゴールを読んでいると、書きたくなる。
 何を? 書くべきことを。
 何を書くべき?──「これを読んでいて自分のやるべきことに気づいたなら、こんな本などうっちゃって、自分のやるべきことをやってほしい」彼はそう云った。まさに生きるための哲学!
 さっそく私は掃除をした。窓の清掃(道具はある)もしたくなる… 買い物も(鍋の具材が欲しい、今日は寒の戻りが激しい)、部屋の整頓も。

 しかし「べき」、社会的に「働く」ことではない。そんな客観な「べき」ではない。自分が「やるべき」と思ったこと、思い知らされたこと、今までの時間から…をやることが、やるべきことに他ならぬことだ。
 その「べき」は知ったことだ、知っていることだ。誰もが知っていることではない、自己が知っていること、自己だけが知っていること。

 大江を読んでも椎名を読んでも、モンテーニュを読んでいてもセリーヌを読んでいても、読んでるそばから「書きたい!」衝動に駆られた。とりわけキルケゴールは!
 彼らに共通するもの、これは情熱だ… 漱石にしてもそうだった、上品な筆致に、その後ろにはそれがあった。
 あきらかにセリーヌの小説、パンフレット、あの文体はキルケゴールの情熱、執着そのもの。
 サルトルの「嘔吐」のエピグラフにセリーヌが引用されていた、そのサルトルは実存主義といわれ… その始祖はキルケゴールといわれ… 繋がった!