個性と協調性(映画「カメレオンマン」から)

「個性は協調性と反比例する」とは、ウディ・アレンの映画「カメレオンマン」に出てきたセリフである。映画の中で、アレン扮する主人公はまさにカメレオンの如く、会っている相手に精神のみならず肉体をも「同化」してしまうのだった。
 太っている相手と話をすれば、太ってしまう。アラビア人と会えば、アラビア語なんか知らないのにアラビア語を話し、コミュニケーションを成立させる。カメレオンマンたる由縁である。

 だが、これは主人公に多大な悩みを与えた。特異体質、特異精神質とでもいうべきこの特殊能力は、彼にとって「自分とは何なのか?」を切実に考えさせる、重大な問題にならざるを得なかったからだ。
 ミア・ファロー扮するカウンセラーが、催眠術をかけて、ほとんど無意識状態になった彼に尋ねる。「どうして相手に合わせようとするの?」
 彼は応える、「その方が安全だから」「そうしておけば、いじめられない」

 だが、その特殊能力は、次第に彼を蝕んでいく。精神と肉体が、大きすぎる代償を彼に払わすのだ。生命の危険を感じたミア・ファローは、彼に、誰もあなたをいじめない、あなたはあなたでありなさい、というようなことを言って、彼を励まし続ける。
 次第に心を開き、最初はカウンセラーに同化していた主人公も本来の「彼自身」に戻っていく。カウンセラーに愛の告白さえするようになる。

 すっかり自信を取り戻した彼は、すっかり「自分はこう思う!」と言えるようになって、意見の対立する相手とケンカさえできるまでになった。この場面は実にユーモラスに描かれ、観る者を「よかったねえ!」と嬉しくさせる。
 最後に主人公は「自分であることが、何より大事だ」とインタビューに答える形で、微笑んで終わる── そのような話だったと記憶する。
 この映画は、実際にあった話のようにつくられていて、うわ、こんな人間がいたんだ、とぼくはしばらく信じ切っていた。

 いや、多かれ少なかれ、カメレオンマン的要素は、どうしたところであるのではないか? 「生きて行くため」の旗の下に…。
 だが、ほんとうにそうならないとダメなのだろうか? 協調することは、協調することを前提にあるものではないだろう。それが善でもないだろう。相手のあることだ、「自分はこうである」「自分はこうである」と主張し合って、相手の言うことをチャンと聞き、お互いに「わかる」こと(「わからない」のも「わかる」ことに繋がるだろう)── これで初めて相手と自分との関係が成り立つだろう。たぶん、それが正しい関係で、協調というのはたいした問題でない気がする。
 でなければ「仲良しクラブ」な子供騙しの関係であり、偽善的な関係であり、その時間は無意味に等しい時間であり、まさに「無」の関係になるだろう。
 無は大好きだが、それはひとりでいる時で充分だ。人との関係の中にまで、無を用いたくないものだ。