確かに「存在確認」の意味はある。
自分が自分に確認しているのだ。
そこにはむろん他者への意識もある。
こうしてわざわざ人の目につく場に書くわけだから。
だが、そこに止まっているわけにはいかない。
見られる、このことだけに重きを置いて…
鏡に映った自分を自分と思い込み… それは鏡にすぎない、それはお前自身ではない。
鏡を疑うことだ、「正しい」鏡かどうか。自分しか見ていない鏡かどうか── いや鏡は自分を映すために在る物だが! それはお前の存在を映すものじゃない、ただの容姿、自分の関心のある箇所をクローズアップして見るためのものだ。そこに他者はいない、いるのはお前の意識の中だけ!
ネットってのは、まさにこのようにして出来上がってる、《自分の関心のあることにしか見ない目しか持たないように人をつくる》ように出来上がっている。
自分に関心があるのは万人共通の話。共通しているのに、その共通者、他者のことには無関心になれる。気にするのは「いかに自分が見られたか」という数やいいね。
鏡が形だからだよ。そしてお前の関心もその中に映る形ばかりだからだよ。無理もない! 自己存在確認のためには他者が絶対不可欠だ。ああ、この絶対、この絶対をつくるのも自分の想像妄想、からっぽゆえに埋められる空想にすぎないというのに。
他者の力は、自分でつくっているものだというのに。他者は存在としてただあるだけだというのに(お前がただあるのと同じように!)お前に与える影響も、お前が与える影響も、それぞれの内にしか働く力はないというのに。その力は、まったくあなどれないものだ、その力こそ、形を為し得、つくるもの、ああ源泉!
そこに目をやらず、鏡、鏡… 数、いいね、形に自己を投影する! 本末転倒ここに極まり… 極まった意識も持てなくなる、なぜってこの極まった状態が持続し、当然である常態となっているからだ。
斯くして形に一直線、自分への関心は自分の形への関心、にすり替えられ(すり替えた自分には都合のいいことに無関心)、装いに装いを重ね、いっかなこの常態を保ち、そこでの自己存在しかできなくなる。
恐ろしいことよ、他者をつくっているのは自己である意識をおろそかにしたまま、これを常態化し、常態となった道を当然としたまま歩き続けるということは(当然でないとどこか思いながらもそこを歩み続けるということはそれを当然のままとして行くいうことだ)。
いや当然はけっこう、生きてりゃ繰り返し、当然、習慣の繰り返しになる。問題は、肝要なるところは、自己存在確認の仕方だ。
自分がつくっているもの、習慣にしても常態にしても、それらは自分がつくっているものである! 自分がつくっている、他者もまわりも、自分がつくっているものであること!
まわりが存在するように自分も存在する、存在をそれ以上のものにするのは自分であること!
それ以上にする、「それ」とは? 存在以上のものにするもの… それはけっして数や他者の存在ではない。ああこのこと、この意識が常態化したなら、数も、人も、信じられるかもしれないのに。
安易な自己満足に走らず、甘い繰り言、自己都合のみに他者の力を借り、身を立たせようとする自分を否定し(この自己こそ真に否定さるべきものだ)、その他者を、自己確認するためにわざわざ利用し、求める他者をつくってるのが自分である意識のもとに、ものを書いて行けばいいのに。それで充分、あり余るほど、おのれの器から溢れかえるほど自己存在確認作業は可能であるというのに。