白湯

 朝起きたらまず湯を沸かしインスタントコーヒー。をここ数十年の習慣としてきたが、この頃はこれに白湯さゆをプラス、コップに一杯。
 最初は「むえっ、なまぬるくて味しない、不味っ!」だったが、この頃は美味しく頂いている。
 コーヒーだけでは物足りなくなって(物足り過ぎているのかもしれない)、何ということもないただのお湯、ただ沸かしただけの水に走った。これがいいアクセント?になって、コーヒーと白湯をほぼ交互に身体に流し込む… 美味しい。
 ちびちび白湯を飲むと、身体がしんみり喜ぶようだ。コーヒーの刺激が緩和され、白湯のさりげなさ、無味さがかえって刺激になっている。などと分析も必要ないほどにじんわり身体に白湯が染み渡る。五臓六腑に染み渡る。まさに「染み渡る」という表現がふさわしい。ホッとする。

 美味しいコーヒーも身体のスミズミまで浸透する感じがするが、インスタントはそうは行かない。美味しいコーヒーは砂糖もミルクも不要だが、インスタントは砂糖を少々と牛乳をたっぷり入れる。ネスレのでかくて安いやつ。
 美味しい物というのは、飲食する本人には気づかない。身体に「教わる」。まず、スイスイ入って行く、ノドから。それから「あ、美味しい」と気づく。身体が喜ぶ物に間違いはない。何かツッカエながら、でも美味しい、と感じるのは、また別の意味の美味しさだと思う。

 身体にいいラーメンを、との主人がやるラーメン屋のラーメンもそうだった。そんな美味しくないなぁと思いながら(美味しいとも不味いとも感じなかった)、でもスルスル入って完食してしまう。で、また行ってしまう。高くなったのでもう行かなくなったが。
 ほんとに美味しい物は、身体が抵抗しない。あ、喜んでる、と気づく── 気づかされる。頭でっかちに栄養がどうの成分がどうのと考えて食べるより、よほど健康的な気がする。
 朝の、何てことのない白湯が、何とも美味しく、ありがたく、しみじみ飲める(身体が喜ぶから「頂いている」というふうになる)のも、頭が何か考えてのことではない。きっかけは、好きなラジオのDJの「ぼく毎朝白湯を読んでるんです」だったが。

 昨日はツツジのけっこうな剪定と、金曜日は全品ほぼ10%引きのスーパーに行った。斜面での不自然な体勢でのノコギリぎこぎこ、味噌などを背負ってのけっこうな距離、夜には腰もしっかり異和感、こうなるのも承知の助、横になって呼吸を静かにみつめたりする。
 自分ってやつとそれなりに長くつきあっていれば、自分が自分の主治医になれるのではないかと錯覚する。そんな悪くない錯覚。
 長くつきあうといってもただの一生の話、錯覚も誤解も何が正覚で何が正解かもようわからん。さしあたりできることは、自分に対し自分に処すること、と、いつものようになるわけです。