Oh,脳!

 ロボトミー手術を行なえばいいのさ。戦闘なんかしなくなる。
 人間の叡智だろう? 医学というのは。
 ── むかし、そう言った作家がいたそうだ。

 ズイブンな意見だと思う。
 野蛮な面を医術で消し去る。
 理性、知性に溢れた人間が、人間の創造する平和な世界であるだろう?

 きっと、埒のあかない戦後文学者との議論に業を煮やして、そう言い放ってしまったのだろう。
 何でも脳のせいにする。そういう風潮みたいなものは、「脳にいかに人間が支配されているか」が証明されたような時から、ずっとあり続けているようだ。

 それにしても、そんな脳の仕組みの発見さえ、何か笑い話になるような気がする。
 人間の身体なんか、わからないことだらけなのだ。知れば知るほど、わからなくなるものだろう。一つのことを知るたびに、知らないことを知っていくことになるだろう。
 そうして「知」が「知」を生んできたとて、人間の知れることなど、爪の先ほどにも満たないものだろう。

 それは「今は」でしかない。そしてその「今は」の連続であることが、今も続いているということだ。
 そして「この今」が、あまりよろしくないとしたら、…そんなニュースばかりだ、それは今に至る今までが、どこかで間違っていた、ということだろう。

 検証することを、人はあまりしないように見える。
 ワクチンが実際どれほどの効力があるのか。パンデミックで、治験もろくにせず、接種すればよいのだとしたのは、実際のところ正しかったのか。レジ袋有料化で、環境はよくなったのか。国葬までされた人物は、それほどのことを為したのか。

 戦争も、その無検証にも等しい、「なぜそうなったのか」「それが正しくないとすれば、どうするべきだったのか」への知恵の働かしが希薄だったこと(自分もその一人だ)、それが過去にあったにもかかわらず、繰り返される遠因、原因と思えなくもない。

 せっかく過去になっても、サッカーでいえばパスが繋がらない。ロングボールを蹴って、時が流れて(時間稼ぎをして?)、はい終わりました、で来ているように思う。

 まったく、とんでもないお金をかけて、宇宙になんか行っている場合ではないのだ。地上に、山積みになっている問題があるし、ヒトに「叡智」があるとしたら、これからは未知への発見でなく、既知への反省、検証から、足を地に着けてそれを今に生かすことと思われる。
 あまりに、先へ先へ、前へ前へと行き過ぎた、つんのめり過ぎて来たように思う。未知なるものは、人間自身のようにも思う…

 マインドはコントロールされるものであるのか。どうも、そうらしい。とするなら、戦争はダメ、戦争はダメ、と繰り返すヘッドフォンを四六時中聞かせ、洗脳すればいいでしょう、と冒頭の作家よろしく、言うこともできるだろう。
 子どもの頃から、全人類をマインドコントロールする。ばかげている。脳外科医と心理学者だけが残される世界。

 しかし医術にしても心理術にしても、一般に、それを施す側と施される側には「上から下へ」といったベクトルがある。
 その構図は、施術者の主体は鮮明だが、施術される者の主体は不鮮明に見える。

 おそらく、「先生」に身を任せるからだろう。受術者はそのとき、いわば無自己同然で、すっかり施術者を信じる。
 重病であればあるほど、信じるしか余地がなくなる。
 そしてもちろん先生も、良心的な人であるならば、なんとかしてあげたいと頑張るだろう。

 だが、人間が人間を窮極において救えるか、という疑問が残る。
 これはおそらく、この施術者・受術者双方の心の重箱をつつけば、その片隅にご飯粒のように貼り付いているものだろう。

 人間が人間を救えるか。どうしてここに在るのか分からない、いのちの別名は存在である。
 その存在を存在としているものの、存在を存在とさせているものの正体は、分からないのだ。

 つまり、この場合両者は、根本的に分からないものに向かっているのだ。
 ただ施術者は何とかしようとして、受術者は何とかされようとして、根本のところでけっして解り得ないものへ向かうのだ。

 施術者も受術者も、なぜいのちがこの身に授けられ、どうして生かされてこなければならなかったのか分からない二人が、この場合、病んだいのちに向かう。
 両者を立たせてきたもの、繰り返すが、生かしてきたもの、それはいのちであって、それはそれ自体、人為によっていのち自体が立たされてきたものではない。

 そこには、人間には理解不能な、いわば大いなる力が、はたらいているように思われる。
 それに向かうこと── 施術者も受術者も、なんとかしたい・なんとかされたいという直線的な、頼り・頼られるという直線的なものでなく、それに向かうこと── なぜならそれが二人を、乃至人類を、ヒトに限らず、この世のありとある生なるものをつくった、造物者であるように思えるからだ。そしてそれは、どこまでも正体不明なのだ。

 その大いなるもの、言葉にならぬもの、目に見えず、手にも取れないもの、それによって生かされているということ── 老荘思想はこの〈 大いなるもの 〉を「道タオ」と呼び、塔の中で思索を続けた懐疑主義者は「自然」とか「運命」と呼んだ。

 わたしには、その力── いわば自然の力が、生きとし生けるものに、すでに備わっている性能のように思われる。
 それを引き出すこと、それによって癒され、恢復に向かうこと── その「お手伝い」を、施術者も、被施術者当人でさえも、その性能の「お手伝い」をすることしかできない、というのがわたしの考えであり、意見だ。

 冒頭の、脳の話と被るかもしれない。ヒトの脳は、そのほとんどが「生かされていない」らしいから、それを引き出そうとするのに(前述の施術者と被施術者の場合、正確には前者によって後者のそれが引き出され、後者もまた前者によってそれが引き出されるという、意思をもって引き出すのでなく、引き出される、という類いのものだが)似ていなくもない。

 そして最後的にこの文でわたしがいいたいことは、戦争で、なにより傷いたむのは、自然なのだということだ。
 わたしは宗教はもっていないが、自然とか運命といった、人智を越えたもの、人間の力の到底及ばないものの存在は信じている。

 それは、〈 大いなるもの 〉のように見える。それを傷めることは、そこから生まれた者として、自分が傷めつけられるような思いがする。
 何も戦争に限った話でなく、自殺や他殺、いじめや殺傷沙汰といった物騒なことは、まったくお断りしたいのだ。