雨の日曜日

 雨が降ると、落ち着く。どこにも行かなくていい、と、観念できる。
 晴れていたって、どこにも行かなくてもいいのだが。
 きっと天気のせいにしたいのだ。何かのせいにしたい、これは致命的な私の欠点だ。

「これ以上無責任になりたくない」と、クジラが塩を吹くようにタバコの煙を吐き出す、寝っ転がった男の姿。
 山川方夫の小説にあった描写。
 不意に、本棚から「かさじぞう」を取り出す。これは、私の大好きな童話。

 昨夜、太宰の「お伽草紙」を読んで、ああ、昔話を現代風にアレンジして、滑稽な物語に変えてみるのもイイナ、などと影響を受け、午前中、書いていた。
 この、すぐ影響を受けるのも、どうしようもない悪癖だ。

 竜頭蛇尾に終わりそうな気配、こんなこと書いてどうするんだ、と、得意の「どうするんだ」が顔を出し、その巨大な顔の口に喰われ、仕舞いにはキョムった状態に陥る。

 やんごとなく、ヤフーニュースを見る。プロ野球。耳淋しく、音楽をかける。
「誰も知らない」下田逸郎。これは「みんなのうた」でも放送されていた曲。
 眼はパソコンに、耳はラジカセに。何かが足りない。

 耳は音を聞き、眼は文字を見ているが、心はどこか上の空。自分を誤魔化している気に、苛まれる。
 ほれ、さっき、雨の日は落ち着く、と書いたくせに、嘘じゃないか。

「行動は限定されて、落ち着くけれど、気持ちは限定を受けないからね」私が言う。
「また詭弁を使うね」
「いや、ほんとのことだよ。気持ちと身体、常に違うところにあるだろう」
「気持ちは、どこにあるのかね」……

 小さな人間である。小さ過ぎる人間である。
 ミクロ化して、塵芥と一緒に外へ掃き出され、雨に打たれて地盤へ沈下、息絶えてもおかしくない。
 いっぱしの、人間の姿をしているだけで、中身は虫ケラ同様、いやさ、虫、おけらに失礼。

 朝は10時だった時計が、今や夕刻、16時。ああ、さてさて、どうしたものか。無為同然の1日。何のために生きているのか、ワカリャセン。

「イキテル、ダケデモ、タイヘンナ、コトナンデスヨ」
「朝が来て、夜が来るように、生と死、クリカエシマス」
「ただの、時の、流れですよ」

 人間だけなんだよなあ、意味だの価値だの、なくてもいいものに、付加をつけようとするのは。

「おや、そこで人間を持ち出す。人間の、何をあなた、知ってんの? 人間云々なんか、どうでもいいでしょう。自分のことを、しっかりなさい。自分のことを」
 その自分が、分からないのデス。