宛名は私

 今まで、人さまに、読んでいただくことを前提に、書いてきましたが、べつに、そんなに読まれなくてもいいのではないかと思うようになり、しかし、読まれないのを前提に書くというのも、何なのだろうと思い、そもそも、何のために、人は言葉を発するのかと考えるに至ったのであります。

 文というのは、一個人が、何か言いたいことを持ち、その思いから、書くのであります。伝えたいことがあるから、書くのであります。
 しかし、べつに、何か言いたいことがあるから書いているのでも、ないように思える、40回目の夏なのです。

 ただ、自分の漠とした「思い」らしきものを、文章、あるいは言葉という形にすると、その型に収まるような気がして、収まらないと不安になるために、言葉を発していると思われます。

 とりとめのない、水のような心の内を、いろいろな形をしたコップに流し込むような行為。
 あるいは、水が、意思を持たぬままに地の上を這い、その高低に従って、一定の形に収まる。
 言葉に表現するというのは、そんなものではないか、と思っています。

 表現、というと、いかにも主体的な、前向きで積極的な行為のように見られますが、実は内向的な、消極的なもののように思えます。
 私のまわりに、現実に人がいますが、その人達は確かにいるのですが、私の中にも、その人達がいるのです。

 私の中の誰かに向かって、ものを言う、または書くことが、「もの申す」ことの、実体ではないかと思うのです。
 想像なのです。
「こいつは、こういう人だよな」とのイメージがあり、そのイメージとつきあうように、現実の人とつきあうような行為。

 実際に会っている時は、相手の顔や、うなずき、首の傾きなどから、相手の気持ちのおおよその見当がつきますが、これが、文となると、相手の反応が分かりません。
 まさに、「私の中のあなた」に向かって書くのです。

 あまりにも、読む相手のことを気にしすぎても、その相手は、「私」の中にいるのですから、どんなに楽しませようと、サービス精神旺盛で書いても、その言葉は結局「私」自身に向けられています。
 
 自分の中の相手に向かって、真剣に書くこと。あれこれ、勘繰るのは、相手を信じていない、つまり自分を信じていない証拠になります。

 自分以外の、何を、ほんとうに、信じられましょう。
「私」の中の「あなた」へ、まっすぐ向き合うこと。これが、私の書く、題目のようです。