喜怒哀楽。
ブッダがいうには、そうした心に支配されるでなく、支配する人間になれ、ということだ。
心を支配する人間になれ。
そう、これは、きっと可能だ。
無関心。余裕。だらけ(怠惰)、ぼんやり。無機質な、空白、白紙を一枚、心にひらひら。
それを見つめる眼、巨大な眼一つでも、小さな眼多数でも、同じことになる。
ただの、眼があればいい。
その眼が、ぼやかされる時、心に支配される。
支配されることに慣れ切った。支配されないではいられない。
そうしてずっと歩いて来たから、心なしではいられない。
支配されることを望んで支配され、好きこのんでのたうち回る。
喜も怒も哀も、同じのたうち回りの体を為し、その心のみが荒ぶる。
性的歓びに支配される時、苦悶の表情を浮かべる。
悔恨、痛恨の念に支配されても、同じ顔だ。
バカな脳は、快楽の記憶のみを求め、イヤな記憶を排除しようとする。
同じ顔をしているくせに、快楽ばかりを求めようとする。
時間が経てば、我に返る。他に、返るところがないからだ。
不承不承に、我を返す。時が経ち、返せるものと化したからだ。
快楽や痛苦の真っ只中にいる時、我は忘れられる。
表面ばかり見て、本質を見ない者は盲めくらである。
漱石の言を待つまでもなく、その時すでに闇の中。
ここでひとつ、疑問が浮かぶ。心の主あるじは誰なのか。
心の奴隷であることにしか、甲斐を見い出せずに来た者は、誰なのか。
心の支配者たる主は、一体どこにいるのか。我、とは何か。
時間と無関係ではいられない。過ぎて、初めて顧みれる。
過ぎている最中は、それをみれない。
「分ける」に語源をもつ「分かる」ことができない。
分けられない、分からない今に、常に在り続けることになる。
言えること、書けること、他者に向かう時、何も分けられない・分からない状態で、何かをいうことになる。
不完全きわまりない事態のまま、我が何かも分けられぬまま、他者と自己、自他は関係をすることになる。
そうしてこの世界が、少なくとも人間とよばれるものの世界が出来上がっているようだ。
感情をゆすぶらすきっかけをつくる、「他」。他によって、うごかされる「自」。
けっして、一致することはない。
一致を見ようとするなら、それが過去のものでなくてはならない。
しかも、自と他の間にみることはできない。
おのれの、過ぎた時間の中で、波立った感情の起伏、その状況(そうさせた環境・物理的影響)を体験したこと、その過去と同じような「今」にあった時、あの時と同じようだと直感的体験をする。
その時、あの時いた人々、まわりの状況、おのれの置かれた立場、自意識から、他者、他へ、初めて自分の意識、心、我が他へ向かい、そこでやっと一致した実感を体験する。
しかしまったく、その時の体験をする自己とは何なのか。
心と自己が同一のものだったら、心の支配者など在り得ない。心に支配された自己は、心が支配するものでしかない。
とすると、我は在ることになる。我が在るから、支配されることができることになる。
というからには、やんちゃ坊主なアメーバ、我を制するような心も、我によって制することが可能になる。
そう、結局、戦争のことを考えている。
我を制せない者が、他を、世界を制しようとして、精神と肉体に傷をのこす武器を用いる──