苦い思い出

 ぼくには直感を信じる傾向があって、自己正当化の罠にも気をつけているが、大抵は外さない。
 初対面で、ああ、この人はこういう人だナ、と分かる。
 全く理にかなわない、理不尽な直感によって、それは分かる(気がするのでなく、「分かる」と言っていいと思う)。

 それから交流する上で、その人の違う面が見えたりしても、ああ、やっぱりこういう人だったんだな、と「最初の印象」、直のところへ還っていく。
 ぼくが唯一、この世で信じているものがあるとしたら、この自分の直感だ。

 リフォーム会社に、この家の工事を頼んだ時のこと。
 その社長は若く、いかにも現代っ子(!)というか、、つまり何か自分の中に芯のようなものがあるにはあるが、実は外から借りて来たものという感じで、風が吹けば一気に傾いてしまいそうな人だった。(ぼくもそうかもしれないけれど)。

 そういった人柄の発露、「サイン」は受け取っていた。
 でも、世話になった不動産屋の提携会社だし、他にいろいろあたるのも面倒だったから、そこにリフォームをしてもらうことにした。

 案の定、手抜き工事だった。
 相当にボラレたと思う。役所のそういった窓口に行ったが、もちろん何もしてくれない。
 悔しい思い、怒り… いやな気持ちが残った。

 過ぎてしまって仕方のないこととはいえ、長い間眠れぬ夜も続いた。
 が、たまたま泊まったホテルの部屋の引き出しにブッダの本(あるんですね、聖書みたいに)があって、読んだりしたのをきっかけに、哲学の本などを読むうちに、──「許そう」という気になった。

 ぼくは無宗教だけど、仏教のそれは何やら哲学的だと思ったからだ。
 いつまでも、忸怩じくじたる思いを胸にしまっていては、かなり精神的にオカシクなる。
 これも何かの因果で、「受け容れよう」という心持ちに、自分を持って行かせた。

 するとある夜、夢の中で、ぼくはその社長と和解していた。
「ほんとはイイ奴なんだよな」とか私が言って、相手もつぶらな瞳で恥ずかしがっているという夢だった。

 それでぜんぶ、ぼくのわだかまりが消えたわけではない。
 でも、軽くなったのは確かだった。
 家に、ごめんね、工事、痛かったろう、これから大切にするからね、などと声を掛け、これからの自分のこと、日々の生活のことに重きをおいた。

 まったく、何かの偶然・必然によって、思いもよらぬ災厄を被り、それによって一生を台無しのようにさせられてしまう人もいる。
 ぼくの知人に、保険会社の社員にひどい対応を受けて、それ以来精神安定剤が欠かせなくなった人もいる。

 わけのわからぬ運命を、敵にまわしても仕方がない…。
 もう、過ぎたことは、とにかく笑ってしまっていい、と思う。
 笑う門に福が来るのではなく、笑う自分が福となるのだ。
 そうしていると、一緒に暮らす人もきっと、何となく福となる── と信じたい。