今、何やら私はこんなわけのわからないことばかり書いているが、幼児期はほんとうにワガママな、親の手に余る子どもだった。自分の思いを通そうとして、それが通らなかったらガラス戸を割った。手から血が流れても、「我」を通そうとした。

 親は、大変だった。柱に縛り付けようとするわ、血止めの処置をしなければならないわ、「なんて悪い子だ!」と叱らなければならないわで、修羅場のような様相を呈していただろうと思う。

 だが、私の記憶にあるのは、自分の手なんかより、欲しいオモチャを買ってくれ、とでもいうような、手のキズよりも欲求の方が大切だとする「我」の存在、この「我」の強さだった。

 この「我」は、今も基本的に変わっていない。自分の要求を通したい、この我は今も強くある。

 だが、そんな暴挙に出ることはしなくなった。子どもの頃という期間限定の自分だった、と言える。だが要求を通したい、この我があることは変わらない。

 だんだん、内向的になって行ったのか。内向せざるを得ない、「我」から発する、「我」がつくった周りの情況もあった。

 自分は不登校児だったので、まわりと自分が違うということを、この自分であるために否が応でも実感、痛感しなければならないことになった。

「みんながしている当たり前のことができない」。母は泣いた。家の中は、笑い声が聞こえなくなった。

 この頃のことは、このブログにも載っけるかもしれないが、とにかく「自分が生きていることは迷惑、大迷惑をかけている」ということを知った。

 だが、その自分は、「みんながしている当たり前のことをなぜ自分はできないのか」、その理由を持っていなかった。

 全く、具体的な理由など、私にはなかったのだ。大人の求める、「対処できる理由」、「こうすればこの子は学校に行く」という、その対策が一向に見つけられない。本人である私が、その理由をほんとうに知りたかった。そして皆と同じ学校へ行き、皆と同じように「普通」になりたかった。

 母が泣くほど、つらいものはなかった。そして家の中が真っ暗になったのも、自分のせいだった。学校に行けばいい、それだけのことが、自分にはできなかった。

 この「私」というもの、得体の知れない自分、わからない自分というものを、あの時期初めて私は知ったと思う。

 …前記した、「性悪な、凶暴な暴君にはどう対したらいいのか」という内容から、自分がそうだったではないか、と思い、この文章を書き始めた。そう、私は小暴君だったが、今はそうではない。何が私を変えたのか、ということを書きたいと思った。

 しかしこれは…自分史の一部として、別の項目として載っけたい。あの時期のことは、つらい。ここに今書くことから、逃避しよう。

 いいたかったのは、まわりから自分というものを教えられた、「我」について考える契機をまわりから与えられた、それについて私は真剣に考えてきたつもりであるという、「考える」ことで何やら自分が変わってきたかのようである、ということだ。じつに、なんということもない話だ。