自分でつくる義務(2)

 だとしたら、私は下降型人間という枠を強靭に自分に当てはめ、そこで喜んで泳ぐ小魚だ。いや、枠に貼りついた藻、コケかもしれない。藻やコケ、と書けば、なんと救われるような気になるだろう! 藻やコケに、私がなれるなんて!

 夢物語を書けば… たとえば私のこの書き物が世間の評価を受けたとしよう。コンクールか何かで優勝したとしよう。私は、イヤになるだろう。どうしてか? そんな名誉(!)を受けたならば、私はきっとそれを精神的な支柱、バックボーンにしてしまうだろうからだ。たったそれだけのことで、妙に自信をつけ(それもあてがわれた・・・・・・「自信」!)、またぞろ軽薄なお調子者である自分を思い知らされるだろうからだ。

 むろん、喜ぶだろう、ある一定の時間は。それは一瞬だ。また、その評価された書き物が、私の納得のいく、「評価されて当然」とでもいう「自信」をもって世に差し出したものであるならば、喜んで、心底喜んで、それを受け入れるだろう。

 だが私は、結局それで何も変わらないことを知っている。極言すれば戦争がなくなるわけでもないし、誰もが平和になれる世界(!!)になんかに、なりっこないのを知っている。

 何しろ私自身が変わらないのだし、変わりたくない… いや変わりたいが、変われないことを知っている。これは、変わりたくないということなのだ。

 ここで私はニーチェを思わないわけにはゆかない。あの超人のように、「軽薄でいいのだ。重さをこそ忌むべきで、軽薄でいいではないか。喜べ。そのあと、それを超えていけ」

 一方で、ツァラトゥストラはこんなことも言っている。「大衆などに、受け入れられるな」。

 私の書くものは、一般に受け入れられるものではない。

 ところで、昨日?一昨日から、メジロが庭に遊びに来ている。ヒヨヒヨピチュピチュ、愛らしい声で、庭の木々の葉を、ひっくり返ってついばんでいる。声から察するに、六、七、八羽? いや、もっとだ。あっちの木に移り、こっちの木に移り、地面に落ちるように降りたりして、なんだか楽しそうだ。

 だいたい萩が伸びきってダラリとする頃、家族みたいなグループで毎年来てくれる。

 掃き出し窓のすぐ向こうの椿に、とまっている。ほんとに可愛い。枝にとまって、身づくろいをしたり、仲良く一瞬寄り添ったり… いなくなったかと思えば、また四、五羽、集まって、ヒヨヒヨ言っている。

 なごむ。彼らは、一定のリズムを持っているようだ。みんな、黙る時は黙り、お喋りを始めると、みんなが喋る。

 一羽が、時間が止まったようにじっとして、ずっと一点を見つめている。どこか遠くを見ているようだ。

 ほかのメジロたちは? 急に姿も見えず、声も全く聞こえなくなった。あ、来た… 三羽。おや、一羽が、二羽に口移しで何か食べ物をあげた! おや、二羽がぴったり寄り添って、相手の身体をつついてあげたりしている。

 ああ、お母さん(?)が何かくわえて飛んできて、子に口移ししてる。ああ、飛んでいる虫を空中で捕まえようとしている。すごいすごい、追って、網戸にぶつかった。あ、捕まえることができたんだね、子供に与えてる…

 いつまでここにいるんだろう? 一羽だけ、ずっと同じ枝にいて、身づくろいをしたり、またどこか一点を見て動かない。

 あ、いなくなった。声だけ、どこかから聞こえる。

 静かになった。あ、また声がする。姿は見えない。