さて、こうして書いて── きみたちに話しているのだけど、実際のところ私はひとりで書いているのだよ。遺言、かもしれない。でも生きているものはいつか死に、… すると、この間に誰かに向けて言う言葉は、ぜんぶ遺言になるかもしれないね。
あまり、いい社会をつくってこなかった人間の一人として、懺悔みたいにこんなことを書いているのかもしれない。一人の人間が、時間を生きているとね、未来というものが狭まってくる。それと比べれば、きみたちには、まだたくさんの時間がある。その時間の中で、どう生きていくか。教えることは私にできないし、できるのは反省ぐらいだ。
何を反省するか? 自分がどこに立ち、そこから何を見るかに依る。「人間」という集団として、その一員の自分として、「人間」を見て… 人のしてきたことを見て、自分のしてきたことを見て、反省するか。
あくまでも「自分」にこだわって、自分のことばかりを省みるか。
たとえばイジメというのがある。これは一人の人間が一人の人間に残酷なことをすることから始まる。いじめるのが一人の人間だとしても、このイジメる気持ち、残酷性というものは、人間がずっと持ち続けているものだ。
その最たるものが戦争というものだ。ずっと繰り返しているんだよ。これが人間の本性だとしたら、愚かというより、哀れではないか。なぜ殺し合ったりしなければならないのか。
ソクラテスという哲学者は、「自分も最初は野蛮な人間だった」と言っている。でも、「それを『考えること』で矯正した」という。たしかに見た目は凶暴そうで、怖そうだ。そういう性質をもっていたのかもしれない。でも、それをなおすことができたと言うんだね。
彼以外にも、たくさん、考える人はいたよ。でも彼にはプラトンという人がそばにいて、ソクラテスはこんなことを言っていた、と記録した。それによって、今もその本を読むことができる。ソクラテス自身は、何も書いていない。その生き方、生き方をつくる考え方、これを哲学というのだけれど、そばにいたプラトンがそれを紙に書いていたんだ。
それはとても立派な考え方で、ただ考えただけでなく、それを実践するように生きたんだね。
机上の空論というのがある。机にかじりついて、考えてばかりいるのは、からっぽで何の役にも立たないことだ、と。ソクラテスも、考えてばかりいたから、友達から「そんなに考えてばかりいたら、破滅してしまうぞ」と心配された。
でも、そうやって考えたから、彼は彼になれた── 彼の生き方、歩き方。その足をつくったのは、ソクラテス自身だったんだ。
彼は、こんなことも言っている。「自分自身の中に、学問がある」と。つまり、学ぶこと、勉強することだね、これは自分の中にあって、自分自身を学ぶこと。自分に問い、学んでいくこと。これを学問という、と。
ぼくら人間は、お互いに、自分を知るきっかけを与え合っているにすぎない。考えるきっかけを、いろんな人と接することで与えられ── 時にそれは、とても苦しい時間でもあるけれど、自分を知るきっかけになる── 学ぶことになる、大切な時間でもあるんだよ。