いのちはめぐるという考え方

 そんな悪い考え方でないと思う。

 ただ「私」が(人間としての)いのちを終えたら、たとえばカタツムリに生まれたり、それが終わったらスズメに、その次はアリに… というような、「私」が生まれ変わる、めぐる、というのではないだろう。

 あくまでも「いのち」そのものが巡るのであって、「私」と自覚するところの「私」がスズメやアリになるのではない、と思う。

 私のいのちは、今、どうしたわけか人間の形として宿っている。この形… ここは大脳やら小脳やら心やら気持ちやら、複雑で精密なメカニックを備え、この「人間」としての機能の中で私は生きている、と言えるのだと思う。

 私は、いずれ死ぬ。あらゆるいのちがそうであるように、もれなくそうなる。

 そのあとのことは知らない。でも、生き、死に、生き、死に、をあらゆる形のものが繰り返している…

 まったく、川の流れのようなものだ。常に今、どこかの生が終わり、またどこかで生が生まれ。

 瞬きをするうちに、生まれ変わっている・・・・・・・・・。死が生に、生が死に、… それはとんでもない、いのちの循環のようにみえる。

 そんなこの世界を想像すると── すごい世界に生きているなあ、とドキドキする。

 息苦しさを感じなくもない。だってこの一瞬にさえ、小さな虫、見えないほどの生き物が、生死を繰り返しているんだから。

 繊細な、微妙で緻密で霊妙な糸が、この世界に張り巡らされているようで。

 でも、そのいのち、ひとつ終わり、ひとつ始まる… その「間」。

 生が生まれ、死が生まれる、その「間」のことを思う。

 そこは、生でもなく死でもないところだろう。

 そこでは、何の形もない。生も、死もない。

 きっと、そんなところがあるような気がする。形になる(生も死も、形があるからそれと分かる)、その前のところが。

 そこのところ、…これは何とも表現の仕様がない、そこにいろんないのちが「ある」のかと想像すると…

 何だか真っ白の世界に白いものがフワフワしているようなイメージだ、世界が白いからその白いのも同化して白く見える… 白いから、実は見えないのだが。

「無」とでもいうような世界だろうか。

 そんな世界を想像したら、ふしぎな気持ちになった。

 でも、そんな世界… 世界とも呼べないような世界が、あるような気がする。

 場所でもない、時間でもない。

 いのちが、どこかの形になる前の。

 その形としての、いのちが終わった後の。