冬眠する人間

 ホテルに泊まった時に見た、テレビが印象に残った。
 BSで、「人間も冬眠する」というようなドキュメンタリーである。

 一緒に泊ったツレアイが熱心に見ていて、ぼくはちょっと、絶対泣いてしまいそうな内容だったので、ニーチェの「善悪の彼岸」の文庫本を読んで、テレビを見ないようにしていた。

 番組が終わり、彼女からその内容を聞く。
 かいつまんで記せば、

 ── ある国に、迫害を受ける一家があった。(人種的な差別か、地域的ないじめか… 根本は同じだ)
 その一家は、ここでの生活はできないと判断し、隣国であるスウェーデンへの移住をはかった。

 が、それは認められず、また迫害を受ける地域へ戻ることになる。
 だが、そこでの生活は、やはり過酷すぎた。
 再びスウェーデンへ移住を申し込むが、やはり審査か何かで認められない。

 そうこうするうちに、子ども(ふたりのきょうだいのうちの、お兄さん)が、まったく無気力になり、ほんとうに寝たきりになってしまう…
 食を摂ろうともしない、何もしゃべらず、何も行動しない。

 医者によれば、身体に、まったく異常はない。
 それだのに、ベッドに仰向けになったまま、流動食だか点滴だかを受け、植物人間のように生きながらえている。
 そのきょうだいの、弟か妹が、学校で集団暴行を受けた。

 その光景を目の当たりにした兄が、ショックのあまりその場で気を失ってしまった。
 それが、この兄(少年)の『冬眠』する、一つのきっかけのようではあった──

 気持ちというものが、身体を支配した。
 だが、そうなるまでに、この一家は過酷な日常を強いられ、絶望の真っただ中の時間を過ごし、唯一の希望であったスウェーデンへの移住も再三にわたり断られ…

『生きる』という意志を失ってしまう。もう、ダメだ、としか思えなくなる。
 親は、なんとか、たたかおうとしても、子どもは。

 環境が、子どもに与える影響が、ただならぬものであることを、思い知らされる。
 そして気持ちが、いかに身体に強い影響を与えるのか、も。

 結局、そのドキュメンタリーはやらせの気配もなく、淡々と進められ、その子は恢復するらしいのだが、その恢復のきっかけは「会話だった」ということだった。
 まったくの無意志者のようになりながら、だから何も聞こえていないようで(聞こうとする意志も見えない)、ただ寝たきりであったが、親が話し掛けたり、何か言うことを、彼は聞いていたというのだった。

 何気ない「語りかけ」に彼は反応し、会話のようなものが成立し── つまり人間どうしの関係が恢復し、彼はやっと、ながい冬眠から覚めた。
 ベッドから降り、外の芝生に立てるようになったという。

「精神と肉体を、どうしてあなたは分けて考えるのか。身体も気持ちも、一緒、同じではないか」というのが、ツレアイの意見だったと思うのだが、この番組を見て、いささかショックを受けているようにみえた。

 希望が、どんどん押し潰されるような環境のなかでは、子どもは、ほんとうにその希望のなさを全身でうけとめ、「希望がない」存在そのものになってしまう…
 だが、希望のなさを植えつけたのも人間であれば、希望をつくるのも人間、そしてその環境であること。

 わたしはわたしで、何かを感じ、ツレアイはツレアイで何かを感じ、家から歩いて30分の一泊旅行は、家にないテレビに支配されていたかもしれない。