私のダイモーン(1)

 しかし、考えてみるまでもなかったかもしれない。

 私の「自我」──

「学校に行くべきだ」「行かなきゃいけない」

 おとなになってからは、「働かなきゃいけない」「働くべきだ」

 これは、頭で「せよ」と命じたものだ。

 それを私は拒んだ。

 私のダイモーン、私のダイモーンは、「するな」「やめろ」と言ってきた…?

 おそらく、そうであろう。

 ダイモーン、私のダイモーンは重大な事に及ぶ時、「声」を発したのだ。

「やめろ」と。

 セックスの初体験(の可能性があった夜)もそうだった。妻とはできた。だが、その前にいた、二、三の女子とは、そういうことができなかった。もちろん健康な日本男児として、あそこは元気であった。だが、何か踏み切れないものがあった。

 あれがダイモーンだったのかは怪しいが、登校拒否、出社拒否は明らかに「身体からの声」であったと言っていいだろう。

 そういうことにしてしまおう。たぶん、これは当たっている。

 ソクラテスは論理的な人間だったから、明確に彼自身の内部からその声を聞いたのだろう。言葉として。ハッキリと。明瞭に。

 まだ、私のダイモーンは弱い。ずっと弱い。ん、弱いのかな。

 これは、自己正当化でも構うまい。私は、きっと私のダイモーンに従ってきた…

 これを、私のワガママと思うなら、そう思うがいい。その我儘、「我」について、私はずっと考えてきたのだ。それもせず、ただのワガママ、と糾弾する人間は、おのれの我についてもっと、よく考えてみるがいい。我とは何か?と。

 我のままに生きるがいいんだよ。

 そしてその我を、この自己は知らない。ただその我に、おのずと、自然に引っ張られて行く。自己は、我によって導かれて行く。

 頭は、身体の一部のくせに、出しゃばり過ぎたね。出しゃばり過ぎだよ。