ほんとうの人の生きる道。
人と自己は分けられない。
自己は人であるから。
人としての自己
自己としての人
前者はわかる。
後者はよくわからない。
結局、人としての自己だ。
人として、自己がある。
その自己が、人を眺める
その人は、自己ではない。
《私》ではない。
と、そこに《私という人》と《私でないという人》と分けられる。
人であることには変わらない。
《私》という自己でない自己をもつ人である。
ひとつひとつ、人に、自己がある。
それぞれに、それぞれの《私》が考え、感じ、思い、生きている。
《私》が考え、思い、感じ、生きている。
《私》は人だ。
人として感じること、思うこと、考えることが、人の領域を超えることはない。
私にとっての、ほんとうの人の生きる道
それは私がほんとうだと思い、考え、感じたことを生きることで
私以外の人に強要するべきことではない
その人がまちがったことをしたとしても
それはその人にとってのほんとうなのであって
「人としてそれはまちがっている」と私は言えない
あくまでも私がほんとうと思い、感じ、考えたことを生きるだけ
私の横に、私でない、私のものでない「ほんとう」がある。
それは《私》ではない。
私は、それに添い、付き随う。
私が私と呼ぶものは、観念である。
私は、ない。
私の横にあるもの、私を私としてきたもの
その意識をもたせてきたもの
私を私としてきたもの、それは私でない。
私以外のものである。
運命とか自然とか、呼びたいように呼べばいい
ただ言えるのは、それは抗えないものだ
私はそれにしたがって死ぬまで生きる
それだけのことだ
それぞれの《私》も
また来たところへ還る
それまで、ここ、この時間の中にいるという
なんとも、かけがえのない、この世だよ