体験したこと、それはあたかも事実としてあるようだが、想像が、まるで体験したと同様に、またはそれ以上に「体験したこと」として記憶に残ることがある。
時間──
体験したことは数年前である。それを今書くとする。が、その事実を今そのままに書く、当時のままに当時の心情、状況、そのままに書くことは不可能だ。
時間…
いや、その「当時」のその時でさえ、無理なのだ。
今をそのまま書くことは。事実をそのまま書くということは。
今ここにいる彼は、当時の彼でない。数秒前の彼でもない。
その彼を見た、接した、私の中の残像。
それが私の中の彼であり──
時間。
彼は今そこにいるし、私の中の彼は…
そして彼のことを想う。ふくれあがる。かなりでかく。雲の向こうにまで…
彼はそこにいる。1m65㎝、55㎏の体躯をもって。
誰だ? そこにいるのは。
時間!
「私の彼は、あんなお爺さんじゃない!」
彼女は否定する。
彼女の中では、彼は若々しい、あの頃の彼なのだ。
あんな爺さんではない! あんな爺さん、知らない!
困ったものだ、45年も連れ添った夫婦であったのに。
だが爺さんも、そろそろ危うい…
〈正気〉であることに疲れてきたのだ。
「俺はここにいる」と主張することに。
彼も、ゆっくりゆっくり、彼の夢の中へ歩を進める。
〈まとも〉であることはつらい。
夢も想像も、あっちの世界だ。
こっちにいるのは疲れたよ。
望む方向へ、人生、行くものだ。
望みの発祥がどこであれ。
ここを基点に、あっちへそっちへ
意識無意識に関わらず、希う方へ
世界は