もう10年近くなるが、父が亡くなったとき、あ、うちは浄土宗なんだ、と知った。
お寺にお墓をもつ家であれば、~宗、という、いわゆる「宗」に属することになる。
日本でいちばん多いのは浄土真宗であるらしいけれど、ほかにも真言宗、臨済宗、日蓮宗とかいろいろありそうだ。
だが、ブッダのはじめた、いわゆる「仏教」は、日本には無いと思う。浄土宗は法然が始めたものだし、真宗は親鸞、真言宗は空海、天台宗は最澄。
ギリシャに生まれたなら、ソクラテスとともに哲学者になったろうゴータマさんは、べつに「お経をよめ」とも「葬式をしろ」とも「座禅を組め」ともいっていない。極楽があるとか地獄があるとか、そんなことは一言もいっていない。それなのに、「仏教」と一括りにされている。
ただ一つ、「人が苦しまないでほしい」が、ブッダの本懐だったと思う。
人が苦しまなければ、それでよかったのだ。
つめたい言い方をすれば、「自分のことは自分でしっかりやりなさい」というのが、「仏教」の基本的な考え方だと僕は思う。
それを神格化…仏格化?したのは、かれにすくわれた多すぎるような「弟子たち」で、ブッダはただ「自分のやるべきこと」をしただけだと思う。
手塚治虫も描いていたが、おおらかで、思いやりがある、やさしい人間。それがシッダールタの原点だったはずなのだ。
僕は十代の頃からそうとうの宗教アレルギーだった。そんなに親しくなかったクラスメイトから、中学卒業後「久しぶりに会わない?」みたいな電話をもらい、のこのこ待ち合わせの喫茶店に行った。すると、「おシャカ様はね…」などと言われ、面食らった。宗教の勧誘だったのだ。もちろん断った。何か怖い目つきだったし、僕は腹も立ち、自分の分の飲み物代をレジで払ってサッサと逃げた。
僕は「巣鴨のお地蔵様」が好きな、おかしな子どもだった。その頃から「宗教的なものは自分の後からついてくるものだ、と確かに考えていた。カミとかホトケ、そのような類いのものが自分を導くのではない。自分の足が、まず先なのだ。お地蔵さんは、後ろにひょっこり、野の仏みたいにいてくれたらいい。
絶対的に信じる怖さを、子ども心にも漠然と感じていたのだと思う。
しかしこう書いていて、自分でもげんなりする。ブッダ、とか書くと「宗教か!」と読む人に思われそうで、気が引けるからだ。
僕はあくまでシッダールタという人間が好きだし、かれが革命家であろうが夢想家であろうが、どうでもいいことなのだ。一つの人生の目的みたいに、あんな人間になりたいとおもう。
自分の中に、さまざまな問題を解決する糸口がある。いや、自分の中にしかない── それを相手におのずと気づかせるのが、現代でいうカウンセラー的な、ブッダの「対機説法」だったと思う。
ソクラテスがアテナイの広場でしていた「対話」と、その態度が似ている。真理・普遍的なものに向かう姿勢は、二人、同じだったと思う。(しかし真理なんて言葉を使うと、何年前かに起きたカルト集団のばかげた事件が思い出され、やはり気が引ける)
そしてソクラテスもブッダも、言葉は他者との間にのみ生きるということを知っていた。
そう、天気もいいし、机にかじりついているのはよくない。
歩こう。