「原爆体験」(六七四四人・死と生の証言、岩波書店)から感じたこと。
── 戦争、それ自体がどうのこうの、というのではないと思った。戦争、それによって苦しむ人がいる。そしてその傷跡は、心身、その時だけでは終わらないのだと思った。
ひとの、痛みを知ること。これが何より、かんじんなのだと思った。
自己顕示欲、自己承認願望について。ひとのいのちを何とも思わぬかのように爆弾を落とす為政者の心理。どこかに、この自己顕示・自己承認要求が働いていると思った。
すると、オレもそうではないか、と思った。残虐な指導者と、その心、あぶりだしみたいに重なった。
戦争指導者と同じ! むろん自分は何の指導者でもない。が、そんな欲、心に重なった接点を見た時、いやになった。
昨日、ふいに椎名麟三のことを思った。共産党員として検挙され、拷問に遭っていた時、かれは死を想った。あと一撃くらったら死ぬ、と感じた時、「同志をバラしてしまおう」と思ったのだ。裏切りである。
すると、かれは自分自身に絶望した。愛していると思っていた仲間、民衆を、次の一撃で死ぬと思った瞬間、まるであっさり捨てようとしたからである。
「ひとを、愛せない。ほんとうには、愛せない」
生きる根拠を失ったような麟三に、一冊の本が届けられた。ニーチェの「この人を見よ」。
「大衆を愛せないって? いいではないか!」本は、そう云っていた。
そして「ツァラトゥストラ」を読み──自己超克、とでもいうような「生きる根拠」、意識の置き場を見つけたのではなかったか、と思う。
人間の考えること、感じること、似たりよったりだと思う。おなじ、ヒトという種族だからだ。超人にはなれない。しかし、超克することはできる。人を超えることはできないけれど、自己を超えることはできる──
ばかげた戦争をおっぱじめる者と、同じ心をきっと僕は持っている。いいではないか、認めよう。認めたくなくても、認めよう。
そこから始めていくこと。あれこれ考え、超克もムリだなぁと感じつつも、どんな手段・やり方で、自己の行き場所・生きる根拠の手ごたえが感じられるか。
「生まれてきたことを不幸と思え」
「優だ劣だと決める馬鹿馬鹿しさよ」
「人から認められないほど淋しいものはない」
「荘子は気分で読むもので、その通りに生きれやしないよ」
「そんなに考えてばかりいたら、おまえ、生きて行けないぞ」
いにしえの人たちは、まったく、よく言った。
外へのベクトル、内へのベクトル。
内へ向かっているのかな。外へ向かっているのかな。お得意の、「よく分からない」だ。