その哲学の講義が、大講堂で行なわれているのをテレビで見た。学生に大人気らしい。
その教授は、講義を受ける学生たちに、まずこう言った。
「哲学とは、あるリスクをともなう学問である。日常で、当たり前とされていることを、見つめ直すという作業であるからだ。
当たり前のように生きている日常から、自分を引き離すのだ。そこから、いわばいろんな角度から物事を見るのが哲学である。
当たり前の中から自分を引き離すということは、自分を孤立させ、考えさせ、くるしめることにもなる。」
さらにこんなことも言っていた。
「そんなこと考えても仕方ないだろう、というのは、懐疑主義者のいうことである。ソクラテスは、友人から忠告を受けている。
『そんな考えてばかりいては、きみは破滅してしまうぞ。哲学は、節度を保ってするがいい。節度を越えるほどに没頭したら、きみは破滅する。生きる活動をしろ。そこからはじめろ』と。
しかし、カントは云っている。
『考えても仕方がない、というのは休息の場に過ぎない。そこにとどまり続けるわけにはいかないのだ』と。」
たしかにこの教授の言うことは、ぼくには難しい。だいたいこういうことを伝えたいんだろうなぁ、という想像と共感のもとに、ぼくはこの記事に書いている。
ぼくのまずしい想像力で、それでも書けば、教授は「そんなこと考えても仕方ないだろう、というのは、間違いである。そんなこと考えても仕方ない、という日常に、生きているのだから」ということを伝えたいのだと思う。
だいじなのは、日常だ。
しかし、だからこそ、そこから自分を切り離して、見るという作業 ──
その講義内容は、一方的なものでなく、対話形式で行われていた。(挙手による、「この考えに同意か反意か」という決も採っていた、学生数があまりに多いから)
教授が学生たちに訊く、
「あなたは、電車の運転手をしている。ある時、ブレーキが効かなくなってしまった。
そのまま行けば、線路上で作業している5人を轢くことになる。
しかしハンドルを曲げれば、もう1本の線路へ曲がることができる。だがそこにも、1人の作業者がいる。
真っ直ぐ行けば5人を轢く。曲がれば、1人を轢く。あなたは、どうする?」
「ハンドルを曲げます」学生のひとりが答える。
「なぜ?」教授が訊く。
「1人の犠牲によって、5人の命が助かるなら、そうします」
「じゃ、もうひとつの仮定をしてみよう」とまた教授が話し出す。
「あなたは医者だ。ここに、臓器移植をしなければ助からない、5人の患者がいる。だがドナーはいない。時は一刻を要する。
5人は、心臓・肝臓・すい臓・腎臓・肺の移植をしないと死んでしまう。
だがあなたは、となりの部屋で昼寝をしている、1人の健康な人間がいたことを思い出す。
彼の臓器を移植すれば5人は助かる。あなたは、どうする?」
「移植手術はしません」
「なぜ?」
「その健康な人の同意なしに、勝手にその人の臓器を移植することはできません」
「電車の運転手のときは、1人の犠牲によって5人が助かるなら、そうすると言ったのに、なぜ医者のときはそうしないの?」
こんな具合に、その講義は進行していく。学生との対話。テーマは「道徳」のようなもので、… いいや、なんか書きたくなくなってきた。これは自分の言葉でないから。ウケウリであるから…
しかし実際、どうしてなんだろう? と考えたい。
1人の犠牲によって5人が助かるという、命において同じ状況なのに、なぜ運転手の時と医者の時とで答えが変わってしまうのだろう?
道徳、倫理。そう呼ばれるものは、いったい何なのだろう?
肌の白い人、黒い人、黄色い人、様々な学生が、大きな講堂で活発に意見交換をしていた。
「功利主義」が主題だったと思う。
ぼくにはもちろん、結論が出ない。
そもそも、結論ありきを前提に、それを求めることが、功利主義ではないかという…