ふむ。Ⅱ

 さて、こないだの続きだけどもさ。

 またやるのか。もういいではないか。

 やっぱり女だからどうの、男だからどうの、というのは、考え方として、よくないよ。

 なんで。

 何でも、そのせいにできてしまう。私は女だから…、オレは男だから…、そういう物言いは、何かマットウなことを言っているように聞こえるが、全然、何も言っていないのだ。
 たとえば君が人を殺したとしよう。殺したのは君であり、男ではない。

 なんだって?

 つまり君という君が殺したのであって、男という君が殺したのではない。君は男であるけれども、男が殺したのではなく、君が殺したのだ。

 物騒なたとえだな。それに、恋愛と関係ないよ。うん、まぁいいや、そうしたとしよう。

 そのとき、殺人の理由に、「自分は男だから殺した」と、君は言えないだろう。

 そりゃ、まぁね。

 ところが、私は女だからどうのこうの、という発想、俺は男だからどうのこうの、という発想からうまれるものは、その殺人理由と同じで、自分のことを何も述べていないのだ。責任転嫁、ていのいい逃げ口上なのだ。

 うーん、よくわからないけど、何の責任を転嫁して、何から逃げての口上なのかな。

 女/男というのは、まわりが決めたものだよね。
 君は、そのまわりの決めた枠の中に自分を放り込んで、そこから何か述べたとしても、それはやはり自己欺瞞だと思わないかね。
 君というものは、君から始まったのであって、女/男という性差から始まってはいないのだよね。
 性に拘泥するところから始まる発想、考え方は、つまり、借り物なのだ。
 自分が自分であるところからの責任転嫁、都合のいい逃げ口上としての性差なのだ。

 でも、オレは男だし、彼女は女だ。これは事実だ、どうしようもないぜ。

 そう、それは事実だ。だが、その事実は、事実でしかないのだ。
 そんなことは、君がオギャアと産まれて、出生届を君の親が役所に出した時、とっくに決まっているのだ。
 君は、君の人生を生きているのに、そんなものにとらわれて生きても、しょうがないじゃないか。

 何が言いたいのかな。

 形にとらわれたところから自分について考え、そこから生きていくということは、気の毒なエネルギーの使い方だということだ。
 それは、いろんな不幸に連鎖する。仮に君が結婚したとして、一定の高収入があり、美人コンテストで1位の妻を得、テストでいつも100点を取る子をもち、それを「素晴らしい」家庭、それこそが「素晴らしい家庭」だと君が思ったとしよう。
 君が求めていた形だとしよう。それを目標に生きてきたとしよう。
 しかし、それは非常にモロく崩壊するよ。
 なぜなら、君が求めていたのは、カネであり、ビジンであり、テストであったからだ。
 それらは押し並べて相対的なものでしかない。
 君は、普遍的であるところの「自己」を、薄っぺらな形へ放擲することに、精力を費やし、命を削った。

 目標の形へ向かって努力することを、否定するの?

 最初は、それでいいだろ、もちろん。しかし、途中で気づけよ、ということだよ。
 その目的をもった自分は何なのか。その自分とは何なのか。そこから考えて、生きろと。

 何のために、そんなこと言うのさ。

 ぼくは、信用のおける人間と出会いたいのだ。そんな、形から始まって形を求め、形を信じる人間を、信じられると思うかい。

 きみは、信用されているのかい?

 知らない。ただ、ぼくは、ぼくという人間が、こういうことを言っている。ぼくの言葉は、ぼく自身なのだ。
 まぁ、今の世の中ってのは、嘘が嘘として平気でまかり通るようだから、ぼくという人間が信じられることも、稀有かもしれんがね。

 おっ、急に自信家。きみも、お気の毒さまだね。で、恋愛はどうした。

 何が気の毒なもんか、ぼくが、ぼくであることに。恋愛? ああ、また今度だ。

 やれやれ…。そのうち、総スカン食うよ、きみ。