これも小学校に行かなかった頃、よく聴いていたアルバム。ぼくの趣味、読書・音楽鑑賞の嗜好は、小学~中学の不登校時代に、すべて決せられたかのようだ。
15歳上の兄の書斎にあった、沢山の本とLPレコード。10畳はあった兄の部屋で、ぼくの精神的五臓六腑は形成されたかのようで…。
小学生に、ふさわしいといえば、ふさわしいアルバム。だって、人生なんか語れやしない。
そんな、生きちゃいない。しかし、イイ大人になった今、もっと語れなくなるとは、思ってもみなかった。
ぼくは「人生」を想像しながら、このアルバムを聴いていた。
「戻ってきた恋人」を聴いて、ああ、恋人が戻ってきたら、こうなるんだ、とか。
「3軒目の店ごと」では、ああ、酔っ払って飲み歩くと、こうなるんだぁ、とか。
「シンシア」、かまやつひろしとの、のらりくらりしたメロディも、よかった。(シンシアって、南沙織のことだとは知らなかった)
このアルバムの最後の曲、「贈り物」は、今もカラオケで歌ったりする。
中学の時は、たくろうのマネをして、女の子みたいに肩まで髪を伸ばしていた自分がいた。
時代、は、確固としてあることを感じる、拓郎を見ていると。
この人は1970前後~80年位の、風と一緒に、その歌声をみごとに、この世に舞わせた人だったように思う。
あの時代でなければ、ならなかった。後年、キンキ・キッズのふたりとテレビに出ていた時も、面白い存在感があったけれど。
この「人生を語らず」では、「知識」という曲に、三島由紀夫の最期を歌詞の一部に匂わせている。数年後、神戸で起きた残酷な事件の手口と被ることになってしまい、販売禁止になっていた時期もあったらしい。
サザンの「tsunami」も、東日本大震災以降、FMであまりかからなくなった気がする。こればかりは、その曲の運命としか言いようがない。
いつかの大晦日に、「インターネットを通じて有名になった歌手」といった人が何か歌っているのを見たが、特に心に残る歌でもなかった。自分が、トシをとっただけかもしれない。
今が「何も残らない」時代に感じるのも、分刻みに更新される情報に、ついて行けなくなっただけかもしれないが、「これだけ音楽が気軽に聴ける環境になったのに、素晴らしい歌が少なくなってしまったのは何故だろう」というコメントをどこかで見て、そういえば、そうだなあ、とも思った。
時代というのは、どうしても、ある。
ぼくの中では、宇多田ヒカルの「オートマティック」、椎名林檎や矢井田瞳、かぶと虫がどうたらこうたらという歌がFMでよく流れていた頃が、言葉が生きていたような最後の時代だった。その後はよく分からない。
さだまさしや小田和正の詩、言葉の散りばめ方は、天才的な、とんでもないものがあった…
「今の歌はよく分からない。昔の歌の方が好きですね」と言っていた20代の人が職場にいた。「フィンガー5が好きです」という20歳の人もいて、実際に「CDを買いました」とか言っていた。
全く、時代というものがある。でも、個人というものが、それ以上にある。今流行の読み物や楽曲が、自分のバイオリズムに合わなければ、昔にあった本や歌で、自分の合う世界をいくらでも発見できる。
しかし吉田拓郎は、すごいと思う。郷ひろみやキャンディーズ(!)にも曲をつくっているし、誰も誉めないけれど、この人は声がいい。拓郎のような声は、出せそうで出せない。
一昨日も、銭湯でひとり、「外は白い雪の夜」を小さな声で口ずさんでいた。
なんとも哀しい物語の歌とメロディー。湯船に浸かりながら、涙ぐんでいた。