長梧子の言葉は続く。
「人間が生を喜ぶことが惑いではないと、どうして言うことができよう。逆に、人間が死を憎むのは、幼い頃に故郷を離れた者が、故郷に帰ることを忘れるのに似ていないだろうか。
麗姫は、艾という土地の国境守備の役人の娘であった。初めて晋の国に連れられてきた時には、さめざめと涙を流して襟を濡らすありさまであったが、さて王の室内に導かれ、すばらしい調達品や寝台を王とともにし、牛や豚の珍味にあずかるようになってからは、なぜあの時あんなに泣き悲しんだのだろう、と後悔したという。
死の世界に行った者も、行ってみれば案外に楽しいので、なぜ死ぬ前にあれほど生きることばかり願っていたのだろう、と後悔しないとはかぎるまい」
── この二十三を読んで、「死」のことを考えた。
荘子が、万物斉動・絶対無差別の見地・立場から、生と死を、万物をみつめていることはわかる。
が、… しんどかった。身近な死、思いもかけぬ、近しき人の死に際して、これを「万物」、生死は同列、となど、とてもじゃないが、できなかった。
ああ、俺は生死を差別しているんだな、と思った。そのひとの死を、特別なものとしている。でも、それは仕方ないことじゃないか。
今までいた人が、突然いなくなって、もう会えないとなったら。
それは、その死は、特別なものだよ。ほかの人の死とは違う。
でも、そう、死は、死なんだと思った。
昨夜、この「荘子」を何度か読み返し、死が死であるように、生も… と?
いや、まだ、腑に落ちない。でもわかった気がするよ。
うん。まだ手放したくないんだな。でも、見えてはいるよ。