人間世篇(十)

 孔子から、中国思想史は始まったと思っている。偉大な父だったろうとは思う。この思想は、戦乱、乱世時下のみならず、人間、斯くして生きるべし、とでもいう一つの道標を確かに築いた。

 また、だから民を統治する側にしても国をおさめるに便利で有効な「儒教主義」として採用に値する指針であったろう。

 そして民もまた、これを受け入れ、むしろ進んで、好んで、この儒教のもとに生活を営んでいた・営んできたといっていいと思う。

 翻って、いきなり現在へ飛べば、かのプーチン大統領は、ある時「なんだ、簡単に騙せるじゃないか人民は。チョロイもんだ」というような「手ごたえ」をもったという。

 この荘子や孔子の紀元前の話から、現在の話へ飛躍する、具体的な論理はない。ただ「~主義」、資本だの共産だの、そういったものの胡散臭さ、それがいかに立派な文言で飾り立てられていたとしても、うわべだけの、でもうわべを立てずにいられない、それに乗っからずにはいられない・いられなかった・・・・・・・人民、人間のことを思う。

 続けよう。

 孔子は、さらに言葉を続けた。

「私の聞いていることを、もう少し言わせてもらおう。およそ人の交際というものは、近くにいる時は、必ず直接にその誠意で相手を心服させることができるものだが、遠くにいる時には、どうしても言葉を通じて真意を通じさせなければならない。その場合、言葉というものには、それを伝える人が必要になる。

 ところが、双方ともに喜んでいる時の言葉や、双方ともに怒っている時の言葉を伝えることは、とても難しいことなのだ。なぜなら、双方ともに喜んでいる時は、どうしても褒めすぎの言葉が多くなるし、双方ともに怒っている時は、悪く言いすぎる言葉が多くなるからである。

 すべて誇張した言葉には真実味がない。真実味がなければ、信用が薄くなる。信用が薄くなると、その言葉を伝える使者が災いを受けることになる。だから格言にも『ありのままを伝えて、誇張した言葉を伝えなければ、まず安全だ』とある。

 また、技を競って勝負をする者は、初めは陽気で楽しそうであるが、終わりになると陰険な悪意を持つようになるのが常である。というのは、興に乗りすぎると、どうしてもいろいろな奇手を出そうとするからだ。

 すべて世の中のことも、これと同様である。初めは上品に振る舞っていても、終わりになると必ず下品で卑しくなり、初めは簡素にしていた者が、終わりに近づくと必ず大袈裟になるものだ。だから、すべて終わりまで気を緩めないことが大切である。

 また、人間の言葉というものは風や波のように、揺らぎ易く定めのないものであり、人間の行為というものは、真実味を失い易いものだ。風波のように定めのない言葉は変動し易く、真実味を失った行為は危険を招き易いものである。

 だから、人と人との間に怒りが生ずるのは、ほかでもなく、うますぎる言葉や、一方に偏った言葉によるのである。

 けものが今にも死のうとする時には、泣き声のよしあしを選ぶひまもなく、息づかいも荒々しく、あらん限りの憤怒の心を生ずるものである。

 人間も同じで、あまりに厳しく追い詰められると、よくない心を起こして反抗するようになり、自分でもなぜそうなるのか、わからないほどになってしまう。

 もし自分でも、わけがわからないほどになってしまえば、しまいには何を仕出かすか分かったものではない。だから格言にも『君主の命令を勝手に変えてはならない。むりに成功させようと細工してはならない』と言っている。

 言葉が度を過ぎるようになるのは、要らない付け加えをするからである。君主の命令の言葉を変えたり、成功させようとして細工することは、かえって事を危なくさせるだけだ。

 成功には長い時間がかかるが、失敗が現われるのは早く、改める暇もないほどだ。気をつけなければならない。

 すべて、物事のなりゆきのままに身を乗せて、心を労することなく自由に遊ばせ、やむにやまれぬ必然の運命のままに身を委ねて、自然のままの中正の道を養うようにすれば、それが最上の道である。

 何事かを行なって、よい結果を得ようなどと思ってはならない。ただひたすら、天命のままに従うのが、いちばんよい。これは、たやすいようで、実は難しいことだ」

 最後のほうになって、やっと「荘子」らしくなったかに見える。それに、そんな道徳的なことを言わず、この人生相談者的な「使者」に寄り添ったような、適格なようなアドバイスを送っている、と思える。

 いいことを言っている。この篇を最初に読んだ時、言葉そのものが「使者」のように感じられもした。

 いかに生きるべきか、その土台のようなものを求めていたから、この文面を何回か繰り返し読み、ははあ!ともなった。

 うん、いいこと言っているよ。