支離疏という男があった。ひどいせむしで、あごが垂れ下がってへそを隠し、両肩は頭のてっぺんよりも高く、頭髪のもとどりが天をさし、五臓は頭の上にあり、両腿が脇腹をはさむ、といったありさまである。
だが、彼は縫いものや洗たくをすることで、自分の暮らしを立てることができるし、箕をゆすって米と糠とを選り分ける仕事をすれば、十人を養うこともできる。
そのうえ、お上が兵士を徴集するような時でも、彼は不具者で徴兵免除になるから、大手をふって人なかを歩き回ることができる。
また、お上が大仕事のための人夫を徴発する時にも、彼は不具者であるために、仕事の割り当てを受けることがない。
逆に、お上が病人に食料の施しをする時には、三鍾の食糧と、十束の薪をいただくことになる。
その身体が不具である者さえ、このように身を養うことができ、天寿をまっとうすることができるのである。
まして心のはたらきが不具な人間は、なおさらのこと、幸福な人生を送ることができるであろう。
── 身は不自由かもしれないが、何とも支離疏、充実した人生を送ってそうである。
見た目が、常人の姿と違うだけであって、しかしその常人よりも幸福そうな生活に見える。
支離疏本人が、それで幸福であるのかどうかについては、ふれていない。想像するに、幸福とも不幸とも思っていないのではないか。
黙々と、淡々と、市井の中を歩き、お上の達しや行政の施しを「ただそうなっているから」というふうに受け、特に何ということもない。
こうして生かされていることに感謝するでもなく、こんな姿であることを憎むでもない。
淡々と縫物をし洗濯をし、この身も世の中も「ただこうなっている」ということを受け入れ、是認して、ただそれだけのこととして彼は生きているように見える。