徳充符篇(一)

 の国に、足切りの刑にあった王駘おうたいという者がいた。彼について学ぶ弟子の数は、孔子の数と等しいほどであった。

 あるとき常季じょうきが、孔子に尋ねた。

「王駘は足を切られた不具者であります。ところが、弟子入りする者の数は、先生とともに魯国を二分するほどであります。

 彼は立っている時も、別に教訓をたれるわけではなく、座っている時も、別に議論するわけでもありません。それなのに、からっぽの頭で行った者が、充実した心をもって帰ってまいります。

 といたしますと、彼には無言の教えがあり、たとえ外形こそ見るかげがなくても、心はりっぱに完成しているものではないかと思われます。いったい、どういう人物なのでしょうか」

 孔子は答えた。

「あの人は聖人だよ。わしも一度お目にかかりたいと思いながら、つい行きそびれて、そのままになっているのだよ。

 わしだって師匠として敬いたいほどだから、まして、わし以下の人物が彼を慕うのは当然だろう。何も魯の国ばかりではない。わしは天下の人々を引きつれて、一緒に弟子入りしたいほどだ」

「あの人は足切りされた不具者でありながら、先生より優れた徳を備えているというのですから、凡人をはるかに越えた人物だと思われます。このような人物は、自分の心をはたらかせるのに、いったいどのような工夫をしているのでしょうか」

「生死は人間にとっての重大事だが、その生死も彼を変化の道づれにすることはできない。また、たとえ天はくつがえり、地は落ちることがあっても、彼を破滅の道づれにするようなことはあるまい。

 あの人物は、表面の現象を越えた真実の理を明らかに知り、物の変化につれて心を動かされることがない。すべて物の変化は天命によるものとし、変化の根本にある不動の道に身をおくのである」

「それは、どういうことなのでしょうか」

「物を差別するという立場からみれば、同じ身体のうちにあるかんたんとの間にも、えつほどの隔たりがある。だが、すべてを同じとする立場からみれば、万物ことごとくが一つである。

 このように万物斉同の立場にあるものは、耳目の感覚の快さに心ひかれることもなく、自分の心を、そのはたらきが融和合一する境地、すべてが一つとなる世界に遊ばせるのである。

 このような人物が万物をみる場合には、その同一である本質だけをみて、個々の物が失われてゆくという現象にとらわれることがない。だから、足ぐらい失っても、土くれをすてたほどにしか感じないのだよ」

 ── 全く、そうなんだよな。何も言えないよ。

 やっぱり戦争のことを思うなぁ。

 同じ種族である人間どうし、無意味な意味をつけて何を殺し合ってるんだと思うよ。

 しかも、小さな種じゃないか。虫や鳥、細菌や風、雨と同様の、ヒトというだけだというのに。

 差別の見地をなくすこと。いや、「なくす」なんて操作、作為、人為にも及ばない。もともと、ないんだから。

 ものを差別する見方は、自と他を分けてあれは優、これは劣とし、わけのわからない競争、はては殺し合いへ行く。

 この足を切られた王駘の境地は、我のない状態、無我にあるんじゃないか。足の一本や二本、失ったところで、だ。

 彼を慕い、集まってくる人々は、彼に懐かしさ── かつて自分たちがそうであったところ・・・にいる彼に吸い寄せられるように惹かれて、やって来るのではないか。