魯の国に、足切りの刑にあった王駘という者がいた。彼について学ぶ弟子の数は、孔子の数と等しいほどであった。
あるとき常季が、孔子に尋ねた。
「王駘は足を切られた不具者であります。ところが、弟子入りする者の数は、先生とともに魯国を二分するほどであります。
彼は立っている時も、別に教訓をたれるわけではなく、座っている時も、別に議論するわけでもありません。それなのに、からっぽの頭で行った者が、充実した心をもって帰ってまいります。
といたしますと、彼には無言の教えがあり、たとえ外形こそ見るかげがなくても、心はりっぱに完成しているものではないかと思われます。いったい、どういう人物なのでしょうか」
孔子は答えた。
「あの人は聖人だよ。わしも一度お目にかかりたいと思いながら、つい行きそびれて、そのままになっているのだよ。
わしだって師匠として敬いたいほどだから、まして、わし以下の人物が彼を慕うのは当然だろう。何も魯の国ばかりではない。わしは天下の人々を引きつれて、一緒に弟子入りしたいほどだ」
「あの人は足切りされた不具者でありながら、先生より優れた徳を備えているというのですから、凡人をはるかに越えた人物だと思われます。このような人物は、自分の心をはたらかせるのに、いったいどのような工夫をしているのでしょうか」
「生死は人間にとっての重大事だが、その生死も彼を変化の道づれにすることはできない。また、たとえ天はくつがえり、地は落ちることがあっても、彼を破滅の道づれにするようなことはあるまい。
あの人物は、表面の現象を越えた真実の理を明らかに知り、物の変化につれて心を動かされることがない。すべて物の変化は天命によるものとし、変化の根本にある不動の道に身をおくのである」
「それは、どういうことなのでしょうか」
「物を差別するという立場からみれば、同じ身体のうちにある肝と胆との間にも、楚と越ほどの隔たりがある。だが、すべてを同じとする立場からみれば、万物ことごとくが一つである。
このように万物斉同の立場にあるものは、耳目の感覚の快さに心ひかれることもなく、自分の心を、その徳が融和合一する境地、すべてが一つとなる世界に遊ばせるのである。
このような人物が万物をみる場合には、その同一である本質だけをみて、個々の物が失われてゆくという現象にとらわれることがない。だから、足ぐらい失っても、土くれをすてたほどにしか感じないのだよ」
── 全く、そうなんだよな。何も言えないよ。
やっぱり戦争のことを思うなぁ。
同じ種族である人間どうし、無意味な意味をつけて何を殺し合ってるんだと思うよ。
しかも、小さな種じゃないか。虫や鳥、細菌や風、雨と同様の、ヒトというだけだというのに。
差別の見地をなくすこと。いや、「なくす」なんて操作、作為、人為にも及ばない。もともと、ないんだから。
ものを差別する見方は、自と他を分けてあれは優、これは劣とし、わけのわからない競争、はては殺し合いへ行く。
この足を切られた王駘の境地は、我のない状態、無我にあるんじゃないか。足の一本や二本、失ったところで、だ。
彼を慕い、集まってくる人々は、彼に懐かしさ── かつて自分たちがそうであったところにいる彼に吸い寄せられるように惹かれて、やって来るのではないか。