結局、八年間一緒に暮らした後、彼女とは別れることになる。
だが、それから先のつきあいの方が、よほど長い。
彼女は彼女で再婚し、私は私で同様の生活に入る。
それぞれに離れ合っていながらも、たまにメールでやりとりをしている。
この関係を、ただありがたいとする以外に言葉がない。
まったく、何の邪心も下心もなく、まっさらにそのまま、つきあえる関係。
友達でも恋人でも愛人でもなく、ただの、それぞれの自分と自分として、関わり合える関係。
こうなるまでに、別れて十年の時間が掛かっている。だが、はたして、あれは別れだったのか、と思う。
確かに、かたちは別れた。だが、それはどこまでもかたちであって、そこからまた別のかたちで繋がっていった。
彼女が彼女であり、私が私であることから、始まった。現実のかたちは後からついてくるものとして、しかしそれはどうでもいいものだ。
断ち切れなかったもの。捨てられなかったもの。どうしようもない自己と自己があって、そこから始まるものが、どうもホントウに繋がる、ということにつながるらしいのだ。
彼女が自分に基本をおき、私が自分に基本をおく。おたがいにそうでなかったら、ここまで続く関係にはならなかったように思う。
現在一緒に暮らす私のパートナーも、先日、離婚した旦那さんとskypeで談笑していた。この世の人間関係、女/男にかぎらず、そんなふうになったらいいと私の妄想は肥大する。
さらに言えば、愛というものがこの世にあるとして、その愛もなくなるほどであればいい、と妄想に翼をつけてみたい。
愛は憎しみとも表裏であるから、その一方だけを美化したくないというわけだ。
つまりは人間、少なくとも私の実現したい情態は、静かで穏やかであることに尽きる。
死ぬまでに、そんなところへ行き着けるかと思うが、波の荒い海は、だいぶしんどい。
浮き足立たず、沈没もせず、たんたんとあること。
「幸せも不幸せもなく・喜びも悲しみもなく」となっては、はたして死んでいるのか生きているのか分からぬ情態だが、そのようなものでありたいと願う。
そもそも、今だって、生きているのか死んでいるのか分かったものではない。
ただ、人との関係から、何やら自分がいるなあ、と思う。気づく。
その関係は、自分をさらけ出し合った関係であればあるほど、それぞれの中で息づくかのようなのだ。