(31)一緒に暮らすということ

 たとえば、今一緒に暮らしているひとと僕は、全く違う。
 テレビを見て笑うツボも全く違うし、道を歩いていて気がつく花も全然違う。食べ物の嗜好も音楽の嗜好も、読む本の嗜好も違う。すべてが、全く違っている。

 それでも、何かふかい(のか、あさいのか)ところで、つながっているものがある。と思える。そう思えるところは、おそらく同じだと思う。
 そしてその「つながらせている」ものが何なのか、わからない。

 たくさん、不平不満を言えば、お互いに、出てくると思う。だが、その根っ子も、「自分と同じでない」ところから始まるものだ。
 一緒に家でご飯を食べることはない。僕としては朝、昼、晩と、一緒に食べたい派であったけれど、彼女はひとりで食べることを好む。

 そして、それに慣れてしまえば何ということもない。それぞれ、別々の部屋でパソコンに向かってご飯を食べる。同じ時間のときもあれば、違う時間のときもある。
「それぞれ、好き勝手にやりながら、仲良く暮らす」を、やっと体現できているのかもしれない。

 こうなると、もはや恋愛でもないような気がしてくる。とにかく一緒にトシを取るというか、人生を往くというか、最後までつきあうというか、そんな感じだけが確かに思えてくる。
 何かをきっかけに、とんでもなく嫌いになる時間もあるが、それも時間が過ぎれば、またモトに戻る。戻らなかったら、別れることになるだろう。

 お互いに何か嫌悪し合い、顔も見たくない時間は、そう長くは続かない。せいぜい半日か1日だ。
 なぜモトに戻るか。戻らないと、気まずい。気まずい重さに、耐えられるほど、僕は強くない。そもそも自分に、意思など存在するのかと思う。で、まったく自然なように、戻っていく。「戻る」という意識さえ、細い。

 よく、もう10年になるのか、一緒にいると思う。「そうならざるを得ないで、そうなっている」。たぶんこれは、お互いに感じていることだと思う。
 不思議なことだ、不思議なことだ。何も宇宙に行って、無重力や重力、大宇宙の神秘を感じる必要もない。3DKの部屋で、十分、とんでもない神秘である。