介護施設で働いていた時のこと。
私の担当フロアには、もうひとり女性職員がいて、いつも彼女と私の最低ふたりがいるという現場だった。
ある日、職場近くの居酒屋で、ビールが半額になるとかいうことで、飲みに行きましょうと彼女にやんわり誘われた。小さな店で、カウンターに座ってわれわれは乾杯し、とにかく飲んだ。
次第に彼女は、「わたし、好きな人がいるんだ」と告白を始めた。「Ｔさんでしょ。あ、Ｉさんかな」と、私も興に乗って茶化す。しかし、違うという。
「その人、すっごく優しいんだ」と彼女は続ける。ドキドキし始めた私はトイレで用を足しに行き、何か覚悟を決めて席に戻った。
あにはからん、彼女が「好きな人」は私であったらしいのだ。そしてそれを立証するかのように、私の右肩にその顔を載せ、彼女はしばらく目をつむった。
私に家人がいなかったら、そのままどこかのラブホテルにでも誘ってしまったかもしれない。
だが、彼女にも旦那さんがいらっしゃるのだった。そして彼女はドメスティック・バイオレンスを受けているというのだった。その暴力から逃れるために、よく友達の家などに泊まりに行くという。
私は、彼女がそんな生活をしているとは思ってもいなかった。私の家人は定期的に実家に帰るので、その時にでも泊まりに来て、少しでも彼女の助けになりたいと本気で思ったが、微妙な問題だから口にはしなかった。
ふたりで生中を各々10杯近く飲み、酩酊状態で店を出た。田舎の駅は単線で、本数が少ない。私の乗るべき電車が先に来て、誰もいない、暗いベンチに1人、彼女を残して行くことに強く気が引けた。
翌日、翌々日と、私は公休だった。その翌日と翌々日は彼女が公休で、あの夜以来5日ぶりに顔を合わせる朝、緊張しながら職場に向かう。始業前、彼女が「ちょっと…」と笑いながら休憩室に誘うので、ついて行く。
「わたし、ヘンじゃなかった？」と訊かれ、返事に窮した。変と言えば変だが、変でないと言えば変でないように思えた。
「いや、特に…。健全な酔っ払いだったと思います」私は答えた。
つまり、彼女は何も覚えていないのだった。途中から、ほんとうに記憶が飛んでいたらしい。
あの夜からこの朝までの4日間、私は彼女のことが頭から離れず、家人に打ち明けることもできず、どうしたものかと悶々としていたのだが。
私は、「覚えていない」彼女に、すっかり傷ついた気持ちになっていた。ひどい、とも思ったが、仕方がないとも思った。だが、なかなか割り切ることができず、何か悲しい気持ちになりながら、しばらくして私が辞めるまで、一緒に働いていた。
もう、あんなふうに異性から打ち明けられることもないと思う。恋愛みたいなものに関する、私の最後の青春（？）だったような。