夕暮れ時だった。学校帰りの少年が、川のそばにかがみ込んでいる老人を見つけ、話し掛けた。
「何をしているんですか」
「何もしていないよ」振り返った老人の顔には、目も鼻も口もなかった。
少年は、好奇心のままに、胸をときめかせて聞いた。「おじいさん、顔、どうしたんですか」
老人は、話しはじめた。
「わしは、いろんな顔をもっていた。ある時は占い師、ある時は手品師、またある時はお笑い芸人。人を、幸せにするのが、わしの仕事じゃった。天職だと思ったよ。笑ってもらうと、こっちも楽しくて、幸せじゃったから。
… 人のことばかり、考えとった。そしたらな、顔がなくなってしもうたんや。自分が、なくなったんやなあ。
ひとりじゃ、幸せになれないから、人をたよりにしたんやなあ。今、やっとほんとうの自分になれた気がするよ」
老人は、ぽろぽろ涙を流した。
「目もないのに、涙を出して、口もないのに話をしている。これはどうしたわけだろう」少年は不思議がった。
老人が言う、「目も鼻も口も、自分のものではなかったよ。目は、人の目ばかりを気にしていた。鼻は、人が笑う空気ばかり吸おうとしていた。口は、人にうまいこと聞かせようとばかりしていた。
… かたちばかりのことに捕われていたから、仕方がない。かたちは、うつろうものじゃった。客がなくなったら、わしもなくなった。そのうち、ぜんぶ、なくなっていくじゃろう。わしはどんどん、ほんとうの自分になっていく感じがするよ」
少年は、面白がって聞いた、
「ねえ、ぼくもそうなりたい。どうしたらそうなれるの?」
老人は答えた、
「さあ、まあ、生きてみることじゃな。これも運命じゃからのう。言えるのは、変わっていく、お前も、どんどん変わっていく、こうなりたいとか、ああなりたいとか、思ってみたところで、どうにもならんよ」
おじいさんの姿が消えた。
少年は、なんて素敵なおじいさんだろう、と胸をわくわくさせて家に帰った。