「個性を有する人間は、つねに繰り返して来るところの、彼に典型的な体験を持つ」(ニーチェ、「善悪の彼岸」箴言と間奏曲)
読んで、ぎくりとした。
わたしは、つねに繰り返して来るところの、わたしの体験を体験している、と思っていたからだ。
すると、わたしは「個性を有する人間」となる。
だが、考えてみれば、考えるまでもなく、この世にある、あるとあるものが「個性を有している」のだ。
いのちと呼ばれるものを有しているものも、いのちを有しているものによって作られたものも。
ひとつとして、同じものはあり得ない。
だが、そんなことを言い出したら、わたしは何も言えなくなってしまうので、「まわり」ではなく「わたし」がただ感じたことだけを書いていこう。
わたしから見た、まわり、を。
まわりは、あまり、まるで個性を有していないように見える。
これは、どうしたわけだろうと思う。
ひとりひとり、違っているはずなのに。
どうして、まるで同じに見えてしまうんだろうと思う。
ほんとうには同じでないのに、ほんとうのように同じに見えるのは、どうしたわけだろう?
するとわたしは、れいによって、わたしの今まで生きてきたことをおもう。
たしか二十歳の頃は、ひとりひとり、会う人が、個性的に見えていたような気がする。
で、わたしは、「人」というものに、とても興味を覚えた。
そうして、いろんな人と会ううちに、「あ、この人はこういう人だな」と、しまっておいた引き出しから記憶を取り出し、その人に被せ見るようになった。
心理学者が、このタイプ、このタイプ、と人間を選別、区分化して「学」としたように、わたしもえせ心理学者となって、人を区分けして見るようになった── のかな。
こどもの頃は、何も「学んで」いないから、目に映るものすべてを、そのままに受け容れることができたのかな。
認めるとか認めないとか、そんな判断もせず、できず、あるものを、そのままとして、見ることができていたのかな。
などと考えていくと、あ、こどもの頃にこそ、「すべてを然りと見れる」至人であったような気もしてくる。
すると、老子の云った、「赤ん坊こそが理想の人間像」といった内容の言葉が、わたしに真実味をもって聞こえてくる。