「侵攻」を続ける国があり、それをされる国がある。
こうなる前に、うまくできなかったか、侵攻をされる国の為政者は、とおもう。
その国の人が、危険に晒されることを、避けることはできなかったかとおもう。
民を守ることが、国のあるじの仕事であるとするならば…。
多少のウソ、どこぞの国の政治家の得意な「根回し」をしてでも、戦争にならぬため、民を守るため、そうできなかったろうかとおもう。
「良心」に逆らってでも、戦争が起きぬためであれば、少し狡猾な手を使ったとしても、オテントウサマは、赦してくれるんじゃないかと思いたい。
今起きている戦争が、なぜ起こったのか、僕はほんとうのところを知らない。
侵攻をうける国のトップは、西欧へ身を寄せたい。かの国からの干渉は受けたくないとした。
それが気に入らぬ、かの国のトップが、「いうことをきけ」と言ってきた。
「もし聞かなければ攻撃をする」と、脅しをかけてきた。
もしそうだとするなら、脅しをかけられた時点で、ネコをかぶって、言うことを聞くフリをして、まわりに、「今こんな情況だ、助けてほしい」と暗々裡に手を打つとか、できなかったものか。
かの国のトップを欺くことになるが、平気で人を「消す」ような人間であることは、まわりも知っていたはずだ。
侵攻をうける国に、武器を供給する国がある。
供給された国のトップが、「たすかる、感謝する」などという。僕は異和感をおぼえる。武器を供給? 人を殺す道具じゃないか。
そんなにまでして、「国」は守らなければならないものなのか?
爆弾を落とし、戦車を走らせることが、もう、ダメじゃないか。殺傷し合うことが、最悪のことではないのか。
戦って、どうする。 逃げろ、逃げさせろ。壊れた町、家、思い出の場所は、もう、元のかたちに戻らないかもしれないけれど、つくりなおすために、いろんな国がお金を支援している── 思い出を抱ける、あなたの、あなた自身のいのちが、失われてはいけない…
それでも、この地に残りたいなら、なるべく、こちらの考えを言って、説得、あるいは、相手の意思を尊重して…。
うまく、いつわりの「交渉」をして、時間をかせいでいる間に、ひとを、避難させておれば、などと想ってしまった。
町を破壊するよう命じられ、その通りに動く兵隊たちも、犠牲者だとおもう。ほんとうに、何のために、そんなことをしているのか、僕にはどうしても分からない。
「法」というものに、あまりに重きをおきすぎているようにも思う。
約束とか、契約とか、キマリゴトで、ひとを、平和に縛ったところで、それは婚姻届や誓約書のような単なるカタチではないのか。
「中国思想史」で、戦乱時代、荒んだ世を法律で「正そう」とした「法家」がいた。
だが、むしろ法をかいくぐり、悪知恵をもつ者が蔓延って世は乱れ、何より民が反発し、法家は短命に終わったのではなかったか。
カタチに従う前に、人には徳が、すなわち「正しい」かどうかの判断の可能な、正しい道への選択をするちからが、人には、備わっているはずだ。
その道を、かぼそくさせるのは、功名心、名誉欲、所有欲、正体不明の、こころ?
平和をうたう条約に、多くの国のトップがサインし、ニコニコとカメラ目線で握手したところで、それに加わらない国は疎外されてしまう。
宗教、慣習、考え方の違いがある以上、みんながみんな、同じ方向を向くわけにいかない。
尊重するということ。違うということを、認めること。
そこから、おたがいの考えをあらわし合い、どんなに時間がかかっても、我慢強く、おたがいにとって「よい」と判断、理解できるところまで、対話を続けていくこと。
人間に生まれた以上、この「言葉」を橋渡しに、やっていくしかないのだろうか。
これは、国と国なんかに限らず、ふだんの日々のなかに、よく思えることだ。夫婦、子と親、上司部下、他者と交わる自己。自己と交わる他者── つまり、関係、対話。僕が、最もニガテとするものだ…。
こないだ、日めくりカレンダーをめくった。
そこにあった格言に、「わが身を立たそうとするならば、まず、まわりを立てよ」
そんな意味のことが書かれてあった。
僕は、心うたれた。そう、自分が、自分ガー、と、ガばかり張っても、ダメなのだ。
いがみあい、険悪な、ササクレだった関係。
そこには、きっと、ガばかりがある。なるべく、謙虚に生きたいと、切に思った。
「目に見えるものだけを見ようとする者── そいつは、盲だ」というニュアンスの、漱石の言葉も思い出す。
言葉も、その見えるもの「だけ」なのだとしても。
それでも。
それでも、なのだ。
(2022.3.19.)