ひとりよがりな世界観、厭世観めいたものに捕われて、では自分は何をする?といった焦り・切羽詰まりに陥った時、「帽子を被ったモンテーニュ」の肖像画にホッとする。
中公クラシックス「エセー」の表紙裏にある、小さな写真のような肖像画。
どこか冷淡で、しかし優しいような、物云わず、ジッとただこちらを見つめてくる、モンテーニュ。
この人がいなかったら、私は今こんなことを書いていない。
思ったことは、書けばいいのだ。
自分について書くことの、何が悪い。
他人のことばかり詮索して、自分のことを何も探求しない人間が多過ぎる。
自分について書く、だいじなことではないか… モンテーニュは、そう言ってくれた。
りりしそうな若い肖像画、病み上がりっぽい肖像画もあるが、この帽子を被った肖像画が、その生涯で最も長い時間を過ごした顔つきのように感じる。
この「エセー」は、確かにモンちゃん(家人はそう呼んでいる)自身の、頭の中の開陳、彼自身の頭の中の履歴書である。
古典、詩による引用も多いのは、
「私ひとりの意見では心細く、古人の言葉を引っ張り出して補強したかった」
とも言っているが、この引用文の置き方が、とても心地いい。
長ったらしい文の後、一行あいて、
〈 私はあちこちヒビ割れていて、あちこちから漏れ出す 〉
と、ある。そしてまた一行あいて、長い文章が続き、
〈 どんな玉座に座ろうとも、人は自分のおしりの上に座るのだ 〉
と、またポツンとこんな一行がある。読んでいて、ホッとする。
ソクラテスのような厳しさ、ストイックな面が、モンテーニュには無い。
「モンちゃん、こういうことを言っていたよ」
ぼくが話し出すと、家人は聞いているうちに必ずあくびをする。そして言う、
「当たり前のこと言ってるだけじゃない」と。
そう、モンちゃんは、きっと当たり前のことを言っているのだ。
だが、ぼくはいちいち感銘を受けてしまう。
興味のない絶世の美人より、ちょっとだけ可愛い女性に惹かれた自分が、その女性の何でもないお喋りに飛びつくのと同じ道理かもしれない。
モンテーニュを、私はほんとうには分からないかもしれない。
それでも、愛人のように大好きなのだ。