介護の仕事の頃(1)長く仕事を続けるには

 まあいいや、とにかく書こう。
 以前勤めた施設では、「一生懸命仕事をすることが、自分の仕事なんだ」と信じて、仕事をしていた。結果、「よく頑張っていますね」とまわりから一定の評価をされ、その評価を落とさぬよう、保持しようとしたことが、苦しい結末を迎える土台になった。
 要は、「自意識」、ここを、今回の職場では、自分の改善点として第一に挙げねばならない。

 仔細を書けば、あ、オレ介護の仕事に合ってるんだという自覚→ それは周囲からの「評価」によってできた自覚だった→ 自分はそれに乗っかって調子に乗り→ ムリをして頑張り過ぎた、というような過程があった。
 これでは身が持たぬということは目に見えていた。そして、ほんとうに一生懸命になっていたから、そんな自覚も弱く、薄れてしまっていた。

 具体例を書けば、…人のせいにしたくないが…ひとりの女性パート従業員が苦手だった。彼女は周囲から、仕事は良くできるが、性格の面ではいかほどか、と見られていなくもない人だった。
 また言えば、下の従業員には厳しく、リーダー格の人々にはやたら親しくなるという人だった。この人と一緒に仕事をすることになったら、自分は辞めるだろうなと予想できる人だった。

 私は介護初心者だったし、介助のテクニック面では、彼女の足元にも及ばなかった。そこに私の葛藤があった。こちらがお風呂介助をしている時に、扉の向こうから何か小言を言ってきたり、こちらが何かするたびにいちいち何か言ってきた。こんな人に、仕事を覚えるために、従わなければならない…

「入居者さんのために」が彼女の口癖だったが、私にはそれは偽善のように思われた。従業員どうしがギスギスした関係であったら、入居者さんのためになどなりっこない。空気は伝染する。なぜもっとチームワークのようなものをこの人は重視しないのか、というわだかまりが、私の心にずっとあった。

 しかし、まあもういいのだ。「人は自分と違う」という事実を重んじなかった、私の自業自得なのだから。

 ところで、長く勤めると、大抵の人は、初期の一生懸命さのようなものが失われていくように見えるのは、何なのかと思う。ただ、「慣れた」というだけで、頑張ってやる必要がなくなるから、そのように見えるのだろうか。
 人間関係にも、「慣れ」があるのだろうか。ひとりひとり、違った人間どうしで、ほんとうに
 リーダーになった途端、それまではチャンと挨拶を交わしていたのに、挨拶をしなくなった人もいた。立場が人間をつくるというが、そんなに簡単に変われるものなのだろうか。

 モンテーニュはボルドー市長になった時、「私はたいしたことはできない。ほとんど無能である」と取り巻きの人達に宣言し、過度に期待されないよう、クギをさしていた。市長としての自分と、ミシェル・ド・モンテーニュという自分を、けっして同一にしなかった。

〈自分を職務に「貸し」はしたが、自分を職務に「投じる」ことはしなかった〉

 これは全く、私に最大必要なスタンスだ。私は、すぐほんとうに持って行かれてしまう。実務は実務として、淡々と、謙虚に、自分は無知であるということを根本に、仕事に向き合う。いや、生きること自体にそうして向き合う。
 また、ブッダの瞑想法(マインドフルネス── GoogleとかIntel だかでも研修で採用しているらしい)もこういう場合、有益である。

 せっかく朝早く目覚め、ひとりでいるこんな時間に、じっと自分の呼吸に意識を遣って、禅でも組んでいると、自分自身の中に落ちていく。仕事のことなど考えない。家のことも考えない。考えても、よしとする。

 肝心なのは、自分で自分を律しながら、几帳面にあれこれしようなどと思わず、
〈われわれは同じ川に二度と入ることはない。なぜなら川の水はたえず新しいから〉
 これを、この身と心で感じることだろう。