異世界、ファンタジー、ライトノベル。ジャンルというのがある。
私には、どうでもいいことのように思える。
私には現実が異世界に見えるし、恋愛など、ふたりきりの異世界ファンタジーだろう。
ライトノベルを文字通りとらえるなら、村上春樹やひと昔前の庄司薫、柴田翔もそのように思える。
こちらに「考える」隙を与えない、ただ「想像」するだけの世界に遊べることが、異世界ファンタジーから連想される私のイメージだ。
「考える」と「想像」は何が違うのか。
「足」がイメージされる。
考えることは、自分の足を地に着け、自分の外にある現実の諸問題を、自分に引きつけて、自分の問題としてとらえる、ということが「考える」ことだと思う。
想像するというのは、足で考えていない。
頭の中に飛び込んで、そこから天高く舞い上がっていく。
思考も想像も、一人作業には違わない。
ただ思考は自分の内側へ、自分の立つ地面の下へ向かう。
想像は天高く肥えてゆく。
そのベクトルの方向が、決定的な差異になる。
そして想像と思考の線が、交わる一点がある。
その一点から、小説、詩、物語がうまれる。
私は身勝手なほどに自分に重きを置いているので、自分を中心としたものしか書けないのが現状だ。
アクセス数は気にもなるが、今まで書いたものを整理する時、どんなにアクセスが多い文よりも、自分が自分に近づいて、やっと言葉になった文のほうを削除しない。
たとえアクセス数が0でも、後者のほうが大切に感じるからだ。
しかし、それでは足りなく感じる時がある。欲が深いのだ。
赤ん坊が母親のおっぱいを吸い、母親が赤ん坊に乳を与える。
このような関係が、「他者と自己」の関係で、私の理想とするところの関係である。
どちらも、義務でやっているわけではない。
そうせざるを得ぬ自己、生命を抱えて、やっているのだ。
そして母子は、授乳時間が終われば、おたがいにホッとするのだ。
ブログなどの書き手と読み手の関係、家族間の関係、仕事先の関係、この世で関係する関係が、ぜんぶそのようであればいいとおもう。
だが、自己と他者は違う。
ここに、私の異世界がある。
そうしてこんな自分がこの世で生きて行けるのか、と唐突な不安に見舞われるわけである。
だって、違うんだから。
だが、生きて行くことなど、簡単なのだ。
食べる物を食べ、よく寝ればいいのだ。
なるべくふかく考えないようにする。
そして適度にお金を稼げばよい。
たったそれだけのことをするだけで、まるで生存は可能である。
しかし、なかなかそうもいかない。
おかしな話である。