宗教には、ドンがいる。開祖とも、教祖とも呼ばれようが、そこに集う人びとの、崇める存在がある。
こころの弱さにつけ込んで、信者を増やし、いわば同族のもの、同じ旗のもとに集まった「同志」、「われわれ」によって、この世界を彼らにとってのユートピアにしよう、とするものたちがある。
それが少なくないお金を動かし、大きな団体となり、狂信的な(もっとも、信じるところには幾分かの狂気が介在するものだが)、生活じたいが信心に始まり、信心に終わるような生活を何十年も続け、ましてや家族代々がその信者たれば、もはやそれは空気、そして他の宗教、懐疑、「もし」という仮定も屁の河童、という人間がつくられるのかもしれない。
思考停止。自分で考えるということをしない。少なくとも信心においては。
そんなイメージは、あの昔々の、おそらくは女帝、絶対的な女帝、倭国の女王・卑弥呼のイメージと繋がる。そしてもし、彼女が民を統治する、政治的な力を持ち、その力を働かせ(しかも卜術、あやしげなうらない、あのアニミズムによって!)、為政者と無関係でなかったとしたら、と想像してしまう。
およそ、政治はたいへんな仕事だ。その国の「顔」ともなれば、そして民の命を、生活をあずかるのなら、とてつもない重荷を負った仕事だ。
いっそ、世界中に多くの信者を持つ、あの団体、そしてボスである教祖、マザーとよばれるあの教祖の意見に、ちょっと従ってみちゃおうかな。どうせ国民にはバレないし。
… 何か重大な物事を決める時、責任の重みは無責任を求め、よく「大物占い師」に決断をゆだねようとする気持ちが生まれることも、わからないではない。
もしかしたら、今までも、そのような為政者があったかもしれない。
自分で決められない。決めたくない。
困った時は、あのヒトに。
ひとまかせ。詭弁。こじつけ。とりつくろい。でっちあげ。
責任から逃れるために。その前に、思考、判断から逃れるために。
どこかの国の代表者は、よく国旗に敬礼してから、会見を行う。ただ、だらんと棒にぶら下がっているだけのものに!
モーパッサンは言う、「祖国愛なんて、宗教同様、不可解なものだ。なぜって、祖国愛なんて、これもやっぱり宗教で、戦争のタマゴみたいなものなんだ」
もしかしたら、と僕は考える。もしかしたら、懐疑論者、懐疑主義者が、戦争のタマゴを持たぬ存在ではあるまいか?
その存在は、何も信じないという、こころぼそい自己を引き受けていくことになるだろう。
それが、もしかしたら、もしかして、… もし戦争のない歴史をつくるとしたら、… そんなところに、ひょっとしたら?