短編集の(一)を読んでいる。さらさらと、読み易い。
訳者の青柳瑞穂さんによれば、この(一)には牧歌的な、農村の生活を描いた作品を集めた、とか。
ギ・ド・モーパッサンは43歳で亡くなったとか。
その死までの十年間に、恐るべきスピードで「女の一生」やら多くの短編やらを書き、さっさと死んでいったらしい。
この短編集を読むのは、約40年ぶり。そして記憶というのは面白い。
この本をどんなふうに読んでいたか、40年前の自分が自然思い出される。
学校に行かず、でも何か勉強みたいなことをしたい気分でもあったのだろう、ぼくはこの本を「辞書を引くために」読んでいた。
ああ、この言葉を辞典で調べ、ルーズリーフに書き込んで、なんだか満足していたなぁ、と。
だが、その頃から、心理的な言葉に興味をもっていたらしい。
現実的に描写される言葉より(それは容易に想像できた気になって)、心もようを意味する抽象的な言葉に熱心な関心をもち、ウキウキとそういう言葉を調べていた。
だが何故それがモーパッサンだったのか。
短編で読み易かったせいもあるが、文字を追えるだけの魅力があり、結局好きだったのだと思う。
その面白さは、今読んでも変わらない。
その面白さには、やはり「生きるタフさ」が描かれているせいもあり、そしてあっけなく終わる淡白さにありそうだ。
特にドラマティックな展開はない。あ、そうですか、と終わる。
だが、やはり風景描写、人物描写、そして残酷さを感じるほどの冷徹なこの作家の目線(でもそれは大きなやさしさだと思う)が、ひどく魅力的なのだ。
作品中、農家の娘は、よく孕まされる。相手との愛情などなく、単なる性欲の対象として。
それでも、ひらたい表現になるが、「強く生きていく」。そこに、それほど強い悲惨さはない。
健康な日本男児だったぼくは、そういう性的な描写に、健康な反応もしたが、そんな淫靡な印象をもたなかった。
セクシャルな描写も、なぜか爽やかだった。全体に、モーパッサンは「生」に根源をもって、淡々と現実を描写しているように思えた。
40年ぶりに読み返し、チェーホフの短編と似ている感じもした。
短編は、輪郭から同じような匂いがするのかもしれないが、チェーホフのそれはどこかインテリ的だ。
だが、モーパッサンはしっかり土の匂いがするし、現実に足を踏みしめて歩いていく、したたかでタフな人々が、生々と描かれているように感じる。
そして、だから死も多い。
モーパッサンの師はフローベールだったらしいが、フローベールは読んだことがない。
だが、ぼくにはモーパッサンで十分なように思える。
そこには、生きている、ぼくにとっての生きている人々が、まったく死なずに、いまも生々と生きているように感じられるからだ。