書けること、書けないこと

 モーパッサンの短編に「田舎娘のはなし」がある。
 トルストイが苦言を呈した小説、と訳者の青柳瑞穂さんがあとがきに書いているが、生命力にあふれている健康な作品だといいたい、と添えている。
 そうだよ、モーパッサン、トルストイに文句いわれたって、たいしたことじゃない、とぼくもいいたい。

 この「田舎娘…」を最初に読んだ時、驚いたのは、主人公の娘が「わし」と言うところだ。「わたし」でないところに、異様なショックを感じた。女が、それも若い娘が、「わし」と言う!
 結婚したが、子どもができず、「てめいのせいだ」と暴力をふるいはじめる夫に、「わしのせいじゃないよ、わしのせいじゃないよ!」と娘は抗弁する。

 だが娘は、結婚前に、子供を産んでいたが、夫にそのことを隠していた。
「子供なんかあるよ、わしには、ちゃんとあるんだから!」

 娘は、女中として雇われていた。その働きぶりが良かったため、その家の主、つまりこの男に見染められ、結婚したのだ。

 だが女中時代、彼女は作男と恋仲になり、妊娠した。ちょうど郷里から、母危篤の知らせを受け、帰郷したとき、赤ん坊を産み落とした。近所の人たちが、その子の養育を引き受けた。そして彼女は、女中の仕事に戻り、給金をもらい、郷里へ送金を続けていたのだ。
 もちろん、旦那はそんなこと知らなかった。

「正直に言ったら、わしは追い出されて、わしも、赤ん坊も、飯が食えなくなっただろう。だから言うことができなんだ。あんたには子供がないから、あんたなんかにはわからんのだ。わからんのだ!」
 モーパッサンが描写する娘、その言葉のいちいちが、胸に入り込み、心を打つ。

 口語って、こんなに迫力があるんだと感じた。
 最初読んだのは中学の頃だったが、どうしてか、その文章に惹かれた。
 今、この短編集を何回も読み返しているが、このモーパッサンの魅力、うまく説明できない。でも、何回も読み返せるほど、「読める」のだ。

 青柳瑞穂さんの言を借りるしかない。
「彼の師フローベールは読書と思索に、己の資源を求めていたのに反し、モーパッサンは生活そのものの中に求め、生活の沼から手づかみに泥をすくいあげて、それをそのまま原稿用紙にぶちまけたという感じだ」

 モーパッサンの文、言葉から匂い立ち、その全体からぼくの心をつかむのは、おそらくモーパッサン自身がつかまれていた生活であり、彼の見ていたコー地方のノルマンディにひろがる広大な農地であり、そこで働く百姓や村娘の姿、林檎の木々やニワトリたち、馬小屋のある、そこで生きていたはずのモーパッサンの、生きた心であると思う。

 人間の描写だけではない。風景の描写が、じつに心地良く、そのままに入ってくる。こんな文章、自分には書けない。牧歌的な、田舎の空気、土の匂い、荒々しい百姓の生活、それを見守る山や空に囲まれた、地に根づいた生活をぼくは知らない。

 それでもモーパッサンがこんなに心に入ってくるのは、その表現に確かな力強さがあるからだろうけれども、それ以上にモーパッサンがそれを書かざるをえない、何か吸引される力、彼を離さない力を、その故郷の生活全体から感じていたからだろうと思われる。

 百姓たちの生活は、平等である、と彼は書いている。雇われた作男が、その主人が死ねば、農地の領主になることだってザラにあるのだ、と。
 といって、平等を礼讃するほど、ヒューマニスティックではない。淡々と、ただの事実、モーパッサンが見、モーパッサンが感得していたであろうことを、淡々と書いているように見える。

 だから登場人物が簡単に、あっけなく死ぬ。あ、どうせ死んで終わりだろう、と、読んでいて分かる短編もいくつかあった。
「残酷、冷血な作家」といわれるのも、むべなるかなと思う。特に希望を読み手に持たせるでもなく、何がいいたいということを克明に書くのでもなく、えっ、これで終わり?という小説が少なくない。

 バッドエンド、などという言葉があるけれど、死が、バッドであるなら、人間みなバッドで終わることになる。
 モーパッサンは、そんなふうに人生を考えなかった人であるように思う。
 書き手として「平等に」大人を、子供を、赤ん坊を描いていたように思う。
 冷酷な作家だったとは、ぼくには思えない。

 そう、ぼくには、モーパッサンのような文が書けない。ただ、やはりどんな書き手であっても、フィクション以外のものは、完全には書けないのだろう、と思った。
 その根幹のところに、原体験がある。
 筆を進める手の中に、自我がある。それを通してのみ、ものが書かれる。照射される。

 モーパッサンの精神的な師は、ショーペンハウアーであった。
「どんなに客観的になっても、無駄なのだ」

 そんな絶望的なことを言われたとしても、ぼくはこう言い返したい。
 無駄だとしても、徒労に終わるとしても、それに向かって、向かえることができるのではないでしょうか…
 そこから、思いやりとか、人間のつながりが生まれ…
 相手の身に、立つことが…
 少なくとも、あなたの弟子、モーパッサンから、ぼくはやさしみを感じます!と。
 そしてぼくの書けることは、ああ自分でもげんなりする、今までいやというほど書いてきた、自分に関することだけなのだった。