大江健三郎の「個人的な体験」を読んでいる。
大江自身の体験なのかどうか、知らない。
ただ、「脳ヘルニア」の赤んぼうが生まれ、親たる主人公はこの子の死を覚悟する。
覚悟は、絶対的な、そうあるべきものとして、主人公の中で根を張った。
だが、赤んぼうは生きながらえる。
主人公は、自分の覚悟に、背徳される。
主人公は、赤んぼうが生き続けることに抱く圧倒的な絶望、さらに、そのように赤んぼうの死を望んでいたかの如き自分に、懊悩するしかない。
主人公は、セックスが怖くなる。
あの子宮、自分のペニスの入り込むあの女体の暗闇に、自身の人生に災厄をもたらす「赤んぼう」の種子の幻影にとらわれる…
… 今、ほぼ半分、読み終えたところ。
主人公の、大学時代に性的交渉をもった「火見子」という女友達が、主人公のセックス禁忌を救う。
それは正常なセックスではなかった。
主人公は、ただ、自分の快楽のためにのみ、火見子の差し出したもう1つの暗い穴へ、その運動を繰り返した。
主人公は言う、「ぼくは今までセックスの後、嫌悪感と自己憐憫にさいなまれていた。」(だが、今した性行為の後、ぼくは嫌悪感も自己憐憫も抱かなかった!)
火見子は言う、「あなたがそう感じたってことは、今まであなたがセックスした相手も、そう感じたでしょうね。嫌悪感はいいとして、自己憐憫は最悪よ。」
主人公は、相手のオルガスムにばかり気を遣って、つまり自分自身は解放されず、自己憐憫を抱いていたのだ。火見子の言う、「最悪のセックス」である。
─── 正確な引用でもなく、間違えた解釈かもしれない。
ただ、やはり、とてつもない力をもった小説で、ほぼ半分読み終え、ぼくの中に残ってくすぶっているものを、ここに書いた。
しかし大江は、ほんとうに毎日、ウイスキーばかり飲み続けていたのだろうか?
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頭部に異常な瘤をもって生まれてきた赤んぼうの死を望み、女友達の部屋に入り浸り、セックスとアルコールとアフリカへの夢を抱いて数週間を過ごした主人公。
ああ、きっと主人公は最終的に、この赤んぼうを殺すことをやめ、引き受けて生きていくんだろうな、という推測どおりの結末。
忍耐と希望。必要必須。
大江の本、新潮文庫で7冊目を数えれば、どういう終わり方をするか、予想はついていた。
しかし、絶望と不安のまま終わる小説も、もっとあってほしい。
光は、書き手が指し示すものではない。
読み手が、書き手のいかなる絶望的な文からでも、そこから己のものとして得るものが、希望であってほしい。
めでたしめでたしの御伽噺に通ずるところのもの、それが「希望」であるにしても。
そればかりを偏重し、美徳とするかの如きの潮流には、ぼくは首を振る。