昨日、全く更新をしなかった。
すると、「ブログ村」でのPVは30。
コノハウイングのアクセス解析では、UUは増えたがPVはやはりガタ落ちで、一日更新しないだけでこんなに落ちるものなのかと思った。
「村」では一人を10と数えるようだから、3人の方が見て下さった、ということになる。
一昨日の夜か、こんなことを書いていて、いや、今まで書いたものをここに投稿し続けて、一体これでどうなる、何になるというのか、と寝床で考えた。
意味がないと思った。
すると今度は、人間存在、自分を鏡に照らして、人間全体になったのだが、人間の存在というものが、意味がなく思えてきた。
意味というのは、目的なり希望なりを持ち、生きていくということ、これを生きる意味、と言っていいかと思う。
そして挫折し、失望したとしても、それさえ糧にする。糧は生きるためにあるのだから、絶望の中に希望を見い出そうとする。そう、暗闇の中にしか、明かりは見えないように。
しかし漱石の「猫」の、甕の中で溺れていく描写が、どうにも頭にこびりついて離れない。
もがけばもがくほど、苦しい。甕の壁を、がりがりやって、一瞬その身、浮くかのようだ。だがまた、水の中に落ちてしまう。しまいには、落ちるためにもがくのか、助かるためにもがくのか、わからなくなる。「吾輩は疲れた。もう、何もしないことにしよう」。そして猫は死んでいく。
人間は、目的を持たされずに生まれた。生まれたが最後、好きなように生きればいいよ。そこに意味を見い出すんだよ、とでもいうように。
目的はなかった。意味もなかった。それが人間存在の最初だとしたら、その始まりに戻りたくなった。
「無意味だから、意味がつけられる。」
無意味を、無意味のままにすることができない。
そして苦しいという。
無意味のままだったら、苦も楽もない。
そこからはじまっている生だのに、苦しんだり楽しんだりする。
甕の中にいるのは、猫君、きみだけではなかったよ。