東京の実家の、二階にあるぼくの部屋に、知らない若い女が入ってきた。
夜だった。
なぜ彼女がぼくの部屋に入ってきたのか分からない。
もちろん玄関か勝手口から入り、おそらくぼくの両親や兄などに挨拶をして、階段を上がってきたのだろう。
しかし、ぼくらは全くの初対面だった。名前も知らない。年齢は、22か、3だといっていた。
彼女は「とにかく疲れたので、もう寝る」と、まるで長年連れ添った夫に向かうような態度でぼくにいうのだった。
だが、その口調や目線には、ぼくらの関係性から派生する倦怠や、彼女ひとりで疲労に精一杯しているという感はなかった。
彼女は笑顔で、少し横を向きながらも、まっすぐにぼくの目を見ていたからだ。
布団は1つしかない。
ぼくはパジャマを彼女に渡す。だが、すでに、いつのまにか彼女はパジャマに着替えていて、しかし従順にも、ぼくが渡したパジャマも、「じゃ、せっかくだから」と着ようとするので、いや、2枚も着る必要はないよと、ぼくらは笑い合った。
だが、その彼女の着ていたパジャマと、ぼくが着せようとしていたパジャマは、どちらもぼくの妻のものだった。
階下の部屋に、妻のいる気配を感じた。ああ、妻は、ぼくが今宵、この知らない若い女と一緒に寝ることを知っているのだ!
ぼくらはまるでそれが当然であるかのようにセックスを試みた。だが、ぼくが彼女のなかに入った時、痛い、痛いと彼女が叫んだ。
ぼくはすぐ彼女から体を離し、ごめんごめんと謝った。
まったくもう、そんなに急いじゃダメでしょ、と彼女は怒りをふくんだ声でいう。ぼくは全身で反省を感じた。
だが、ふたりして、おたがいの何かを許し合っていた。
彼女がトイレに行くために階段を下りていった。ぼくは、なぜか部屋の中に少し落ちていたピーナッツを拾い集めた。
よく見れば、部屋の中はきたなかった。部屋の、かたづけをしなければ。
部屋の中のかたづけをしていると、下で、声がする。風呂からあがった兄と、トイレに入ろうとしていた彼女が、バッタリ会ったらしい。
「あ、すみません」と照れ隠しで笑った様子の、くぐもった兄の声が聞こえた。
続いて、「いいえ。」と、確然と、厳粛な裁きをこの世の全てにするような、微塵の微笑もない、しかし不快な印象も残らない、堂々とした彼女の声が聞こえた。
この「いいえ。」を聞いて、ぼくは彼女を、立派なひとだと思った。
もうすぐ夜が明ける。
今日は、すぐそこの商店街で朝市の日だ。彼女に、朝市を案内しよう。
トイレから戻った彼女は彼女で、ぼくの机に乱雑に置いてあるキルケゴールやショーペンハウアーを、うまれて初めて目にするように、不思議そうに手に取って表紙を見つめている。
ぼくはぼくで、部屋に散らばるレジ袋などをかたづけている。
そして彼女は、目の前にいるぼくという人間が、はじめて分かったように、まっすぐな目をしてぼくを見たのだった。
それからぼくらはリラックスした体勢で、つまり寝っ転びながら、言葉少なに何か親密な会話をした。
彼女を、大切にしなければ。だいじに、しなければ──。
そう思ったところで、目が覚めた。
いい夢をみたと思った。まどろみながら、もっと続きをみたかったが、もう眠れそうになかった。
ただ、胸がぬくぬくした。あたたかい気持ちに包まれているような、自分がその気持ちを抱いているような、不思議な気分だった。
気持ちのいい、朝だった。