日常生活の中で、「そんなの当たり前だろう!」と、誰かに面と向かって言い切ることが、自分にはできない。
冗談みたいに言える時はあるが、しかし、あの自信に満ち満ちたような、確然とした土台の上に立って、「そんなの、当たり前だろう!」と言い切れる、あの絶対的な言い切りが、ぼくにはムリなのである。
「当たり前だろう」と言いたくなるとき、胸の底に、ほんとに当たり前なのか? 違うだろう、という反復運動の気配を感じるためで、「そんなの当たり前だろう」と、微塵の揺らぎもなく、発言することができないのだ。
つまり、「こうこう、こうなんでしょ?」と相手に確認をとる前に、「だろ!」と、自分にとっての絶対性を主張すべく、「あたりまえ」というたったの5文字で、相手を押さえ込もうとする自分が、いやになってしまうのだ。
だから「当たり前だろう」と言える時のぼくは、イライラしているか、その相手のもつ絶対性に抗うための、最後のイタチッペ、出口なし情態に陥った自分自身への抵抗、という具合である。
当たり前、というのは、悩ましい。
言い換えれば「常識」、まるで圧倒的大多数の承認する「正しさ」が、そのバックボーンにあるような、奇妙な威圧をふくんだ言葉に聞こえるからだ。
だが、よく見れば、当たり前とは、当たり前と発する人のもつところの、観念でしかないのである。
それが常識であるとか世間の正しさであるとか、ぼくなどが簡単に感じてしまうのは、きっと、ぼくの内面の一方的な飛躍なのである。
だが、残念なことに、ぼくはその自己内の飛躍によって、まるで苦しんできたようである。
自業自得の気配もするが、しかし、それが想像であれ妄想であれ── それを始点に描かれて出来上がる自己内の規定の枠から、自分の生き方、方向性といったものが、現実としてあらわれ、それを羅針盤のようにして航海してきたのも、事実なのだった。
それは、「当たり前」とする、されることに対する抵抗であり、抵抗することから自覚される、自我というものだった。
反抗のための反抗ではない。自我があるということからの、いわば抵抗なのだった。
その自我というものは、自分の場合、あの不登校という形であらわれたし、またなかなか今も生きづらいというていであらわれてもいるのだ。
「当たり前」を、個人の観念としてのみ発するのではなく、言われたほうも言うほうも納得のいく、目に見える事実のようなものであればいいんだが、と、ぼくの頭はまた跳躍をはじめる。
「当たり前」が、絶対的にまかり通ってはならない、という「当たり前」も、「当たり前」の中にふくまれていてほしい。
電車の中で体調がすぐれず座っている若者が、目の前に老婆が来たからといって席を譲り、そのあとで倒れてはならないように。
いろんな「当たり前」が厳然と立ちはだかって、この世は生きにくい、とは、いつの時代でも、当たり前のように言えることだったとは思う。
ただ、現在を生きる者として、「当たり前」を、せめて他者も自己も苦しめない、当たり前のこととして、「そんなの当たり前だろう」と、心底から言ってみたい衝動に、たまに駆られてしまう。