仔細に見つめないで

 さて、どうせいかがわしいのなら、そのまま書いてしまえ。だが、これが私にとっての真理であり、私の体感・体験、感化感得する「世界」なのだ。

 いかがわしいよ。

 でも、まことのことわりだ。

 地球がまわる。宇宙も、ある。日が昇り、日が沈む。人が生まれ、生きて死ぬ。あまりといえばあまりの、まことのことに私には思える。

 だが、それだけでは、ことわりにならないようなのだ。理、ことわりとは、一定の周期から避けられぬもの、外れぬもの、軌道から外へ行けぬもののようだ。

 誰もが死ぬ。

 一人だけ死なないものがあったとしたら、それは常軌を逸したものであって、その人のみに生じる「ことわり」である。

 それはそれでもちろん立派なことわりだが、たぶんそのような人間はいないだろう。

 キリーロフのように、「私は死なない」その道理も、まことに立派なことわりであった。(彼を思うと、わたしは微笑を禁じ得ない。もちろん同意するからだ)

 だが一般に、この何億年かの地球の上で、死ななかったものは残念ながらいないのだ。

 わたしは、死をありがたいと思う。ほかの人の死は、知らない。ほかの人が自身の死を、どう受けとめようが、知ったことではない。わたしに知れるのは、その人が死んだということだけである。

 あとは、その人の死についての、わたしのひとり作業である。涙を流したり微笑んだりしながら、その人が知己であるならば、その人と共有した時間、つまりは想い出、そこら辺りの時間へ身を寄せ、身をよじるであろう。

 だが、生がご褒美であるならば、死もまたご褒美のようなものだ。何しろこの苦、生きるということはどうも苦のほうが多いらしいから、ついでに楽もなくなってしまうのが残念だが、さしあたってそこからいわば解放されるであろうからだ。

 だいたいが、ひとりにひとつ、ひとりひとりのいのちなのだ。生まれた時もひとりであれば、死ぬ時だってひとりである。なんと贅沢なことだろう。

 もう、そこにある・・のである。誰が何と言おうと、何を心配しようが何を不安になろうが、あるのだ。死があるのでなく、一人一人、一体一体が、そこにあるのだ。

 これは認めてもらわねばならない。いや、否定のしようがない。

 不安は、否定だ。ついでに言えば、受け入れられないから不安になるのであって、否定するから自己がある、と言ってしまっていいだろう。

 つまり、あなたは生きているのだ。同様に、まわりの、何やら人も、生きている。特にどうということはない、とさえ言ってしまえるような、せめて気持ちぐらい、軽く、雲みたいに浮かびっぱなしの、風まかせでいいのではないかと思われる。

 消えて、浮かび、消えて、浮かび── みんな、ちりぢりになる。もともと、ちりぢりだったんだ。

 ここで出逢えた奇跡、それだけで、もう。