生命の使い方

 死ぬということについては、よく考える。

「死ぬ気になれば何でもできる」

 そう言った人は、きっと大変なことを行なう時、死ぬ気になって、やっていたのだろう。

 自分にはできないようなこと、自分にはムリだと思えることを、「死ぬ気になって」やることで、それをクリアしていたのだと想像する。

 ここに、一つの分岐点があるように思える。

 その、自分にはムリだと思える、「やるべきこと」は、そんなにまでして、死ぬ気になってまで、やるべきことなのか? そんな疑問を、僕は必ず抱く。そしてこの世に、そんな、「死ぬ気になってやるべきこと」が果たしてほんとうに存在するのだろうか、と。

 死ぬ気になってまで、やらなきゃいけないこと。

 家庭、家族を守る? だが、死ぬ気になって守ってみたところで、ほんとに死んでしまったら、その後家族が困るであろう。死んだら、守るどころの騒ぎでない。

 会社を守る? 社長ならそんな考えも持てるかもしれない。しかし社員を守るために死ぬ気になれるような社長が、ほんとにいるだろうか。これも、前記した家族と同じ道理で、実際死んでしまったら社員は路頭に迷いかねず、あまり嬉しいことではないだろう。

 生命を守る? これはあまりに漠然としている。レスキュー隊に勤務する人は、それが使命であるかもしれない。犬猫の救助を行なうことも稀にあるらしいが、たいていは人間の救助に向かう。

 たいへんな仕事だ。消防隊、警察官… 医者も、生命を守るお仕事だろう。

 さて、困った。人の生命を守るために、自分の生命を賭す。これは仕事、職業であるから、そういうことができるんだろうか。「自分が死ぬかもしれない現場に行く」その仕事に携わる人のみが持ち得る、死ぬ気にならざるを得ない、でないと仕事ができないという、いわば「死ぬ気にならないとできない」仕事人のみが持ち得る特権だろうか。(医者だって、コロナ患者に向かう時、命がけのような心境かもしれない)

 私などの、及びもつかぬ世界だ。自分の死と、隣り合わせの職業。

 しかし死…

「死ぬ気にならないといけない、やってられない」。日常生活で、些細な、とんでもない些細と思えることを、いちいち死ぬ気に近いような気持ちになって、やることがよくある。

 それをするのが、イヤな時だ。それを、したくない時── 会社に行きたくないとか、ゴミを出しに行きたくないとか、人と会うのがイヤな時とか、そんな時、出社することが、ゴミを出しに行くことが、人と会うことが、もうイヤでイヤでたまらなくなる。心臓がドキドキし、過呼吸みたいにもなって、ひょっとしたら死ぬる思いで、会社に行き、ゴミを出し、人と会う等をする。

 行ってしまえば、ゴミを出せば、人と会えば、その最中は、何ということもないかもしれない。だが、それまでが、それをするまでが、不安で不安でたまらなくなるのだ。

 ありがたいことに、強迫観念症だとか、何たらかんたらだとか、そういった気持ちへの病名も、医者へ行けばもらえるらしい。

 笑ってしまう。みんな、そうじゃねぇか。観念の中に行き、不安の中に生き、他人と自分をくらべ、何だかんだと苦しんでるだけじゃねぇか。人間なんてなぁ、みんな病気なんだよ。

 生老病死、この四苦を、どうしたって抱えて生きてんだ。

 戦時中は(今もどこぞの国でやってるが)、国のために死ぬのが英雄とされた。

 天皇陛下万歳! と叫んで死ねば、もう英雄だ。

 もしかしたら、自分のために死んでは、いけないのかもしれない。

 他人のために死ぬこと── これが今も、そしてずっと変わらぬ、「生命を美化する」「死を美化する」重宝な、そして安易な、常套手段のような「生命の使い方」「最期のきれいな散り方」なんだろうか。

 自分のために、生きているだろうに。ほんとうのところは、自分のために、生きてきただろうに。