仔細にみつめる

 動きを。この内面、内部の動きを。

 ベタに言えば、心がある。こいつは、何か外部のものによって感化され、外からの影響なくして「ない」ものだ。何かの対象によって動かされ、初めて「ある」ものだ。それ自体、単体で単独では踊らない。それだけでは、動かぬもの、「ある」とは言えぬものである。

 その心に、自己が動かされる。踊らされる。心と自己は違う。一体のものにみえるが、自己は心の奴隷のような、囚人のようなものだ。それほどに、密接な関係だ。まるで心が自己そのものであるかの如く、見紛うほどに。

 ところで、「書く」ということはどういうことか。表現すること、「話す」でもよい。何か言いたいことがあるから、表現というものが為される。

 汗水たらして、口泡を飛ばして、表現しようとする人もいる。訴え、主張、意見、とも換言できるが、要は自分に言いたいことがあるからだ。

 その自分(「自分」とは分けることから来ているのだ)は、この自己を、表現しようとする。つまり心によって揺り動かされた自己が、外に向かおうとするわけだ。

 この時、自己は心に占有されてるといっていい。そしてこの心は、外部からの感化なしには立てないことを思い出してほしい。

 表現、つまり形になることを心は自己に要求する。そうして心が表現されたとしよう。その心は、形になったはずの心は、はたして心ではなくなる。それは言葉であるからだ。

 そしてその心が言葉(何でもいい。表現されたものだ)として内から外へ這いずり出るまでに、さまざまな紆余曲折を遂げるのだ。

 醜悪な思考、感情、こいつを殺したいとか自殺したいとか、この世などブッ飛んでしまえばいいとか、物騒な動きも時には経て、外へ現出する。

 繰り返すが、この心の外への流出は、けっして内にあった心のままではない。殺人者だって、自殺者だって、そうなるまでには時間があった。その時間の中で、一体どんな想念が彼らを苦しめただろう! そう、行動・行為だって、立派な不完全な心の現出なのだ。

 言葉あそびをするつもりはない。だが、表現とは表に現れたものにすぎず、その表に出させたもの自体はどこまでも内の中だ。

 外に現れるまでにピョンピョン飛び跳ね、うさぎのように飛び回った心がある。そして出口をみつけ、はじめて外に出るが── そのとき表現されたもの、せっかく形になったものは、原形をとどめていない。

 当然な話である。そもそも原形などない、無形のものであったのだから。これを有形化しようとすることじたい、そもそも無理があるのである。

 真理というと、いかがわしい宗教を想起させるが、まことのことわりというのは存在する。おそらく、それは道程である。道理、といっていいだろう。

 大きな意味でなく、ここでは小さな真理、とでもいうものにスポットを当てよう。まことのもの、その道程は、個人の中にしかあり得ない。

 それを表現することが、すなわち、たとえば私だったら私が生きることになる、ということだ。

「誠実」とか、客観、主体、出されたもの、それを見るもの… ここにあるもの、そこにあるもの。じつに、さまざまな想念が瞬時にして飛び起き、かがみ、また飛んでいく。

 そのいちいちを描写する限り、その道程をみつめる限り、まったく無限の材料、俗にいう「ネタ」など、いやというほどここ・・に吹き溜まっている。