椎名麟三という作家を、知っている人は少ないのだろうか。
「戦後文学」というジャンルに分類される。
「太宰の次に死ぬのは椎名だ」と言われていたが、冬樹社から24巻の全集が出され、脳内出血という自然死によって61歳まで生きた作家である。
「深夜の酒宴」がデビュー作だ。
近年、「自由の彼方で」が講談社文芸文庫から出ている。
それによると、大江健三郎は、椎名麟三の葬儀の弔辞で、
「助けてくれ、助けて下さい、と貴方に向かってひそやかにつぶやいてしまう自分を見い出します。
椎名麟三さん、日ましに私どもには、あなたのはげましの光が必要となるでしょう。」
と述べているという。
私にとって椎名麟三は、「音楽」のジャンルでブログに書いた「下田逸郎」と同じく、私の最後に残る人間である。
私は宗教は持っていないが、椎名麟三は最終的にキリスト者であった。
なぜ洗礼を受けたのか。椎名麟三は、神なんか信じていないはずだった。
ここでは、この点にのみ、書いてみたい。
椎名麟三がキリスト者になった気持ちがわかる気がするからだ。
とにかく椎名麟三は、実直な、嘘をつかない、まじめで誠実な人だった。
それは作品を読めばわかる。信用できる、ほんとにいい人だったと思う。
そして椎名麟三は、小心な、思慮深い人だった。
ひとの気持ちや自分の気持ちに、同じ容量のエネルギーを使う人だったと思う。
椎名麟三が椎名麟三である以上、くるしくなって余りある、袋小路に入って、それはもう宿命だったはずだ。
よく晴れた、快晴の昼間の中でも、椎名麟三には黄昏時の茜色に見えていたときが、長らくあったはずなのだ。
椎名麟三をキリスト教に走らせたのは、「神を信じる人間たちへの同化」への意欲だったと私は思う。
で、キリスト教というのは、その主人公であるイエスが、死んで、生き返ったりする。
処女であるマリアから産まれたりもしているという。(詳しく読んでいないが、そうであるらしい。)
そう書かれている聖書を、おそらく信じている信者に、椎名麟三は、真実とユーモアと、生きる力を与えられたように思える。
どう考えても現実的ではないことが書かれていたとしても、椎名麟三は、それを信じるひとに、愛を感じていたに違いないと思えてならない。
神にではない。神は単なる人間の反射板のようなものでしかなく、肝心だったのは、そこに映る本体の、人間自身。
椎名麟三のことは、また書かざるを得なくなる、きっと。好きだから。