20年ほど前、自殺未遂をくり返していた女性と交際していたときがあって、ぼくも死にたかったし、夜中の感情のままに「今度、一緒に死にましょう」という手紙を返したことがあった。
ぼくらは文通をしていたのである。
3、4日、彼女からの返信を、緊張をもって待った。
今度こそ自分は死ぬのだと思った。
だが、彼女からの返信は、ダメですよ、死にたいなんて、という内容だったのである。
それまでの手紙とは別人のように、軽やかな明るさが文面を満たしているように感じたものだった。
「それは、かめくんが一緒に死のうとして、一緒に死んでくれる人間ができたことが、彼女は嬉しかったんじゃないかな」
イソウロウ先の、ぼくの誕生日を家族で祝ってくれたスズキさんに、そういわれた。
一緒に死ぬというのは、一緒に生きることなのかもしれない。
だが、一緒に生きるというのは、まったく可能である。
が、一緒に死ぬというのは、よく見れば不可能なのである。
そのときはひとつひとつの遺体となっていて、一緒であるという自覚さえもてない以上、ひとつひとつの死であるのだ。
だが、その死に向かって、一緒に生きていくということは、できるらしいのである。