「歳だけ取って、漫然と生きているようでは、生きている意味がない」漱石はそう言っていたそうだ。
暗に、そういった人間が多すぎる、と嘆いているニュアンスもあった。
ものを書くにあたっては、自分の経験したことを書き、哲学的な見地をもってそれを文学とすることが大切である、という意味のことも言っていた。
昨夜、ラジオ深夜便でそんな話を聞き、ソウダソウダと僕は思った。自分はそういうふうな書き方をしてきたつもりだったからだ。
だが、僕は文学を書いていない。ただブログや小説投稿サイトに、漱石が言っていたような姿勢で書いてきたつもりだ。「記事」として。ネットの中の、一つの「情報」と化して。
かの文豪が言っていた「大切な姿勢」だけは間違っていなかった、と、僕は自信を得たような気になって、嬉しかった。
そして気になったのが「漫然とただ生きているだけでは意味がない」という言葉。
この「漫然」から、僕は、たくさん読まれるだろうかとか、いいねが付くだろうかとか、今日はどのくらい読まれたろう、といった「人の評価」を気にする自分が思い浮かんだ。これでも、気になるのだ。
これは、漫然ではないか?
世はうつろう。この世をつくっているのは人だ。だから人もうつろう。
その「人」の評価を気にすること、そこに重きをおくということは、── 自分の書いたもの、発信したものが多くの評価を得たい、これに重きをおいて表現していくということは── 漫然と、ユーレイのように彷徨い歩く姿が思い浮かんだ。
「自分は今ここにいる」ということを、知らない人に知って欲しくて、今日は何を食べたとか、どこへ行ったとか、発信する… そういう人が、少なくないようだ。
僕は20年前、ブログを始めて、生活がブログになってしまったような経験がある。
今日仕事でこんなことがあった。明日から東京に行きます。今、恋人とはこんな感じです。ブログに毎日、そんなことを書くうちに、「あ、このことを書こう、このことも書こう」と、日常の出来事がブログのネタにしか見えなくなってしまった。
これは、今を生きていないと思った。今起きていることを、あとでブログに書こう、と、「あと」のことに心が行ってしまう。「今、目の前で起きていること」に向かうのでなく、頭の中は「あとで書くブログ」のことばかりに向かっていた。
こんなの、全然今を生きちゃいなかった。
20年前、僕のブログはずいぶん読まれた。人と知り合いたいと思い、実際知り合った。友達や恋人と。外へ外へと僕は向かい、哲学的なことも書きながら「つきあいやすい」文章を書いていた。
だが、自分の心は、やはり自己顕示欲、承認願望に囚われていた。「自分」をそのまま文に表現したもの、それを気に入ってくれる人とつきあえるのだから、それはそれは嬉しいものだった。承認願望も満たされるし、自分が自分のままでつきあえる! 初対面でも、それまで読んでくれていた人たちは、僕のことを旧知のように知っているのだ。気楽だった。楽しかった。
でも問題は…ほんとうに根深い自分自身の問題は、この承認願望が満たされる気持ち良さに僕自身が溺れてしまったことだった。
今またブログを書いているのは──「認められたい」気持ち、これはある。人と知り合いたい気持ちもある。でも、その気持ちばかりに囚われまい、とするために、内へ内へと向かいたい、としている。
人と交流がないのは淋しい気もする。いや、淋しい。何のために公開しているのかと思う。書くことが好きであることは間違いない。
ブロガーさんとの交流がなくても、…あまり読んでいない、というか、僕の書く内容のような記事を、あまり見かけない。だから接点が持てない。あ、この人は、という人はいるけれど、こちらからお邪魔しても、「なんだコイツは」と思われそうで、コメントするのも気が引ける。
ウケるようなことを書いていないつもりだから、だから余計に、「フォロー」されたり、読んでくれた足跡が残っていたりしたら、かなり嬉しい。でも、そればかりに囚われないために、また内へ内へ向かう。